幕末志士たちの解剖学講義
「長崎精得館受業生十三士」古写真の謎解き

森 望
福岡国際医療福祉大学・医療学部
長崎大学・名誉教授

はじめに

 長崎大学の医学部で神経解剖の講義と実習を担当していた時期に、大学図書館の医学分館にあった一枚の古写真が気になっていた(図1)1)。タイトルは「長崎精得館受業生十三士」とある。中央の台の後方、右手で脊梁骨をつかむ人物が幕末の長崎での医学史で著名な松本良順の長男、銈太郎(けいたろう)であることは所々で記載があるのだが、それ以外の人物について解説した文章にはほとんど出会ったことがなかった。書物を手にする者、頭蓋や顎骨を見つめる者、ぼんやりと思慮する者など、所作はさまざまだが、幕末の長崎で西洋医学の指導をした初代のオランダ軍医、ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールト(1829-1908、在日は1857-1862)によって創設された西洋式病院「小島養生所」が、二代目のアントニウス・ボードイン(1820-1885、在日は1862-1866, 1867-1870)の時代になって慶応2年(1866)に「精得館」と名前を変えた、その頃の写真と思われるのだが、松本銈太郎以外の12名の人物の実像がまったくわからずにいた。少し前に別の調べ物をする過程で、これを解読する上でとても貴重な史料があることを知った。愛知県碧南市の藤井達吉美術館からの硏究紀要にあった豆田誠路氏による史料紹介『長崎精得館ボードイン受業生名簿「鵬氏門徒伝習人名前姓名簿」』(2019年3月刊行)2)である。

図1
図1 骨学の授業風景 (「長崎精得館受業生十三士」と題された幕末古写真)(長崎大学および順天堂大学所蔵)

 この史料は、ポンペのあとに来日したボードインに学んだ263名の人名録(いわば、ボードイン門下生たちの同窓会名簿)である。慶応2年(1866)の8月までに在籍した人々の氏名と出身地(藩)の記載があり、それをもとに各人の入門歴や子弟関係など、とても精細に整理した労作である。それを見ると、相良弘庵(知安)や長与専斎、緒方惟準(洪哉)、橋本綱常、岩佐純など、幕末から明治時代にかけて近代日本の医療の確立に貢献した著名人以外に無数の人々が全国諸藩から長崎の医学伝習所(精得館)に送り込まれていたことがわかる。その史料紹介の最後の部分に、参考として2枚の写真がある。その一つは、冒頭で言及した「長崎精得館受業生十三士」(順天堂大学所蔵)なのだが、それに関連して掲げてあったもう一枚はその写真の人物説明だった。筆文字で13名の名前とともに、写真の中でのそれぞれの立ち位置が解説されている。豆田氏はそこに「翻刻」として、それをわかりやすく判読記載してくれていた(図2)。

図2 図2-2
図2 上の写真の人物説明(順天堂大学所蔵)。画像のとおり上・右が欠けた状態で台紙に貼り付けされて現存。豆田誠路(碧南市藤井達吉現代美術館)による判読(2019/3/31)を右に掲げた。人名の下の数字はポードイン門下生名簿(後述)のリストの番号に対応。(許可を得て転載)

「長崎精得館受業生十三士」古写真の人物特定:彼らは何者か?

 豆田氏も指摘しているように、この原文の上部と右端が欠けているので、解読は若干不完全なところもあるが、各人物の配置を推測するに十分な情報が示されていた。これをもとに、この写真(図1)の13名の氏名を特定することを試みた。最初の解釈は下図左(version 1)(図3)である。だいたいは良いように思われたのだが、後半の人物の特定で不可解なところもあってしばし悩んだ。ふと思い立って、上記(図2)にある説明文の後ろから2行目の「戸塚柳三」の説明、「台方朦朧者」を「右方朦朧者」と解釈して組み直してみた。図2左の左上部分の筆文字は「台」とも「右」とも解釈が可能と思われたからである。その結果が下図右(version 2)(図3)で、画面右手の4名(近藤、三崎、山本、戸塚)の人物特定が修正される結果となった。

図3 図3-2
図3 豆田氏の史料翻刻を元にした人物特定:2案(version1 および version2)。右側の4名(人名をシェードとしている)の特定に違いがある。

 豆田氏が整理した263名のボードイン講義の受講生の氏名やその出身藩やその後の活動などについていろいろ調べていく中で、国立国会図書館のデジタルコレクションの中にこの写真「精得館受業生」に関連する記述があることに気づいた.3)。中外医事新報(1216)4)だが、それは日本医史学会から昭和10年(1935)2月に出版された論文集である。そこにはこれとほぼ同じ写真と、13名の人物についてのほぼ正確な記載があった。そこでの人物の特定結果は、上のversion 2(図3右)と完全に一致していた。

 ただし、この昭和10年の論文では、この写真の中央部分、松本銈太郎の隣のとなり、書物を左手に掲げてすっと立つ男を「山田(やまだ)徳三郎」としている。しかし、これは「山内(やまのうち)徳三郎」が正しい。また、そこには「山田徳三郎(後に堤雲)」とあるが、山内堤雲は実際には山内徳三郎の兄(山内六三郎)である。

 このようなわけで、当初は戦前の史料の存在を知らずにおり、一旦はこの古写真の人物を豆田氏の史料解析を基にして初めて特定できたような気がしていたのだが、実際には昭和10年にすでに同様の記述があったことが判明した。ただし、そこにはミスもあって、ここで改めて正しい解釈ができたということにもなった。しかし、改めて実情に立ち返ってみれば、この写真が長崎で撮影されたその日には、すべての人物の特定ができていたことは自明のことだろう。写真そのものと写真の解説が、時代とともに散逸してしまうことで、後世の人にはその特定が難しくなるという現実がある。

「長崎精得館受業生十三士」の出身藩:彼らはどこから来たのか?

 とにかく、これで「長崎精得館受業生十三士」の人物の特定ができた。その名前を基に、さらに史料を辿っていけば、昭和10年の史料にはなかったことがいろいろとみえてくる。それはここにいる13名は全国諸藩から長崎へ送り込まれた将来を期待された俊才たちであったということである。特に福井藩、沼津藩、松江藩、会津藩などからの精鋭部隊であった。その概要をまとめておく(図4)。

図4
図4 出身地別にみた「長崎精得館受業生十三士」の出身藩。出身地ごとにアルファベットと番号で受講生13名を整理した。下段右には諸藩の位置を示す。

1)福井藩

 最も多いのは福井藩で、この時期、半井元瑞、高桑道準、山本良哉、三崎宗玄、橋本綱常(琢磨)らを派遣している。いずれも福井藩の医者の家系の生まれだった。5人目の橋本綱常もこの当時、長崎に来ていたがこの写真には写っていない。この写真が撮られる数年前に、福井藩では藩内で最も有力視されていた橋本左内(1834-1859)(橋本綱常の兄)が安政の大獄(1858-1859)で処刑され、26歳の若さで死した。多くの藩士がその後の人生に迷う中で、医者の家系では新しい西洋医学に道を見出そうとする若者が多くいたとしても不思議はないだろう。この4人のうち注目すべきは半井元瑞と三崎宗玄である。

半井元瑞(のちの(さやか))は初め江戸に出て松本良順の門に入ったが、第16代藩主松平慶永(よしなが)(春嶽)(1828-1890)の命で長崎へ向かっている。16歳から20歳を過ぎるまで長崎で語学(オランダ語とドイツ語)と蘭医学を学んだ。ポンペ、フルベッキ、ボードイン、ハラタマ、マンスフェルトなどに師事し、長崎留学は4年以上になる。

次いで、三崎宗玄(のちの嘯輔(しょうすけ))は幼名を虎三郎といった。文久元年(1861)、14歳で蘭学修行のため江戸に出て大島圭介の塾に入門したが、翌年、藩主夫人の帰藩に同行して福井に帰郷した。慶応元年(1865)の1月に18歳で医学修行のため長崎へ遊学。3年近くボードインから医学を学んだ。三崎は長崎滞在中に三崎宗仙の養子になっている。三崎宗玄は語学に卓越していたようで、ボードインがのちに化学の教授としてオランダから呼び寄せたクーンラート・ハラタマ(1831-1888、在日1866.4.16-1870.12)の通訳(訳官)を任されている。慶応3年(1867)2月にハラタマが江戸へ向かう折には、三崎も同行。その後、ハラタマは幕府の要請を受けて大阪での近代的な理化学校、舎密局(舎密(せいみ)はケミストリーを意味する)の教頭として開設準備にあたるのだが、それにも日蘭の仲介者として三崎が同行した。三崎は常にハラタマと行動をともにした。

福井藩からは、他に高桑道準山本良哉(のちの匡輔(きょうすけ)がいた。昭和10年の文献4)では山本良哉の名は山本芹香とされている。山本良哉は弘化3年(1846)の生れ。幼名は円(まどか)。万延元年(1860)15歳の時江戸に出て、蘭方医坪井信良(つぼいしんりょう)(1828-1904)から蘭医学を学んだ。その後、文久元年(1861)福井の藩校、済世館(さいせいかん)にて元治元年(1864)まで医学、洋学を学び、慶応元年(1865)11月29日、20歳のとき長崎に遊学した。長崎での勉学は半年ほどと比較的短かったが、『南越・城北医生、山本筆記』としてとりまとめたボードインの講義録がある。講義は週に3日ほどのようだったが、山本はすべての講義日を記録しており、「日々の口述筆記を夜惣官や学監の筆記と照合して誤りを質した」と書いていて、勤勉ぶりが伺われる。当時は戸塚文海(1835-1901)(のちの海軍軍医総監)が夜惣官、高橋正純(1835-1891)(肥後熊本藩医から大阪医学校校長兼病院長)が学監を務めていたと推定されている3)

2)沼津藩(三河の飛地:大浜陣屋)

 次に、沼津藩からだが、これには少し注意が必要である。沼津藩といっても彼らの出身地は静岡県東部ではなく、今の愛知県の碧南市近郊、地理的には三河の土地で岡崎藩の近く、沼津藩の飛地(大浜陣屋)の出身だった。この中で最も重要な人物は近藤介石(のちの坦平(たんぺい))で、彼も先の半井と同様、4年ほど長崎でボードインに学んだ。同時期に近藤原賢宇都野碩順(のちの(じゅん))も一緒に長崎入りしたが、彼らはみな親戚筋(又従兄弟の関係)でいずれも三河の出だった。近藤家は沼津藩、宇津野家は幕府旗本の柴田家の家臣だが、いずれも三河で同郷といっていい。どちらも、この地で代々医者の家系で、近藤介石の父、近藤安中(あんちゅう)は文政13年(1830)に紀州の華岡青洲(1760-1835)にも学んでいる。幕末に、その家系から3名も長崎へ送り込むことからみても、この家系は最新の医学習得への情熱が高かったものと伺える。近藤と宇津野の3名は文久2年(1862)、江戸で戸塚静海に学んだが、戸塚は多忙だったようで、しばらくして同年9月14日に松本良順へ入門した。一年ほどして、3名は、松本良順の指示の下、長崎でボードインから蘭医学を学ぶべく、良順の子、銈太郎とともに元治元年(1864)江戸から長崎へ向かった。

3)松江藩

 松江藩からは2人。北尾漸一郎(ぜんいちろう)(のちの北尾家七代見輪(けんりん))と熊谷亮海がいる。北尾は松江の藩医の家系、北尾家七代目となる人物だった。北尾漸一郎の父、北尾家六代北尾見輪(1808-1873)は松江藩医だったが、当時の九代目藩主松平斉斎(なりとき)(1815-1863)の命で松江藩に初めて写真機を購入し写真術を移入している。写真術も幕末期、異国からの最新技術だった。北尾見輪は父親の名前で、長崎に遊学した時は北尾漸一郎で、のちに帰郷後七代目としてそれを継ぐことになる。

4)会津藩

 会津藩からは馬島済治(のちの小松済治)(1848-1893)。ボードイン受講生の名簿の中には馬島済治ではなく馬島瑞謙とあってやや不可解なのだが、これは実は父親の名前である。馬島瑞謙(1811-1859)は会津藩医で兵法家でもあったが、その父親、馬島瑞延(1782-1830)の時代から馬島流眼科を標榜した。馬島済治は会津の藩校、日新館で学んだが飛び級を重ねて、その後日新館蘭学所で会津藩士の山本覚馬(1828-1892)から蘭学を学んだ。成績優秀で18歳で藩命により慶応元年(1865)、長崎精得館へ遊学した。ボードインから医学を学ぶとともに、ユニークだったのは、当時からオランダ語だけではなく長崎で造船指導に来ていたドイツの技師、カール・レーマン(1831-1874)からドイツ語を学んでいる。これには会津藩が当時から鉄砲や砲弾の製造や買い付けのためにこのドイツ系の技師にアプローチしていたことが背景にある。会津からの馬島の長崎遊学は、純粋な医学導入というより、ある意味、新時代への防衛も視野に入れた会津藩からの挑戦だったようにも思われる。

5)その他

 写真の中央左手にすっと立つ長身の山内徳三郎(やまのうちとくさぶろう)(1844-没年未詳)は旧幕臣で、幕府直属の旗本伊奈氏家臣の山内徳右衛門(とくえもん)(豊城(とよき))(1802-1868)の四男として京都で生まれた。山内徳右衛門はもともと江戸の麻布にあった伊奈氏家臣の武家屋敷(長屋)に家があったが、主家伊奈遠江守が京都の伏見奉行として赴任するのに伴い、それに随行したため、その頃は京都在任だった。徳三郎の父、豊城はのちに大阪御徒士、つまり大阪城内の護衛役も務めている。山内徳三郎の長兄に山内作左衛門(1836-1886)、その下の兄に山内六三郎(のちの堤雲)(1838-1923)がいる。徳三郎が長崎に遊学する前、19歳の時(おそらくは慶応元年(1865))作左衛門について樺太へ旅した。その後、山内作左衛門は幕府がロシアへ派遣する留学生の目付役として函館からロシア艦船で南方を周り、イギリスのプリマス、フランスのシェルブールを経由してサンクトペテルブルクに至り、その地の大学でロシア語を学んでいる。その弟の山内六三郎は、15歳の頃、江戸で母方の叔父であった佐藤泰然(1804-1872)(のちの図5参照)に医学と語学を学んだが、その後、文久3年(1863)から慶応3年(1867)にかけて幕府から派遣された第二回遣欧使節団(団長は池田長発(いけだながおき)(1837-1879))の一員となった。パリ万博へ向かう徳川昭武(あきたけ)(1853-1910)(徳川慶喜(よしのぶ)(1837-1913)の弟)の通訳という立場だった。その欧州への旅の途中、エジプトのカイロ郊外のスフィンクス前で撮られた武士団一行の写真の中に山内堤雲の姿があるのは興味深い。また、パリでは渋沢栄一(1840-1931)らと同宿している。パリ滞在中にはロシアから帰国途上の兄、作左衛門が立ち寄っている。また、この頃、英国(キングス・カレッジ・ロンドン)留学中だった佐藤泰然の末子の林董(はやしただす)(1850-1913)(松本良順の弟)(図5参照)が英国から訪ねて来て、一緒にロンドンまでドーバー海峡を渡って行ったりもしている。このように山内家は旗本家臣の家柄だったが、幕末の先を見据える時代に兄弟そろって海外へ羽ばたく、という気概があった。山内徳三郎は同じ頃、長崎遊学でボードインに学んだが、その意図は医学の修行というより語学と化学の習得に主体があったように思われる。山内徳三郎はのちに医学ではなく、鉱山の調査開発の技師、地質学者としての道を歩むことになる。ちなみに、長兄作左衛門は実業家で、陸軍用の薬種商から山内資生堂を創設した。次兄六三郎(堤雲)は明治政府の官僚から鹿児島県知事となり、その後八幡製鉄所の初代長官になっている。佐藤泰然や松本良順を親戚とする名家の出だが、その興味は必ずしも蘭医学だけではなかった。

 写真の中央からこちらを見つめているのは、冒頭でも述べた通り松本良順(1832-1907)の長男、松本銈太郎(けいたろう)(1850-1879)である。当時、江戸幕府での御典医(奥医師)から医学所頭取となっていた父、松本良順の計らいで若くして長崎精得館で指導的立場を任された。松本銈太郎が江戸を発つ時、三河から松本良順に弟子入りしていた近藤介石(坦平)、近藤原賢、宇都野碩順が同行している。この松本銈太郎との長旅を近藤らに託したのは、おそらくは師匠だった松本良順からの熱い信頼があってのことだったものと思われる。松本銈太郎は年齢からすると近藤坦平より6歳も若かったが長崎での立場は彼らの指導者(師匠)ということになった。

 さて、最後はこの写真で最も右側に立つ戸塚柳三だが、その人物像は当初よくわからなかった。先の豆田氏のボードイン門下生の名簿でもリスト番号との対応がついていなかった(図2右)。しかし、263名の名簿の中でこの「長崎精得館受業生十三士」古写真に写る人々が大方38番から80番目にいることを踏まえて、その周辺を注意深くみてみると、38番のすぐ前、37番に「戸塚隆庵」とある。現在の静岡県西部の掛川藩の出で、遠江国掛川太田総次郎家来とあり、師匠は戸塚静伯となっている。太田総次郎(資美(すけよし))は第7代(最後の)遠州国掛川藩主。似た名前で戸塚静海(とつかせいかい)(1799-1876)といえば坪井信道(1795-1848)、伊東玄朴(1801-1871)と並んで幕末期の「江戸の三大蘭方医」といわれた人である。遠州掛川の医師、戸塚隆珀の三男で長崎の鳴滝塾でシーボルトから医学を学び、将軍侍医、幕府の奥医師にもなった人である。こういうことからすると、この写真の戸塚柳三はこの遠州掛川の戸塚家の一人と考えても何らおかしくない。豆田氏が整理してリスト化した資料の基になった近藤坦平が著したと思われる『鵬氏門徒伝習人名前姓名簿』に立ち返って見直してみると、そこには確かに筆で「掛川、太田総次郎家来」と添書きがあり、名前の「隆庵」の「庵」の横に小さく「三郎」と書き足しがあった。するとこれは、隆三郎とか三郎、あるいは隆三と称した時期があることを匂わせる。掛川藩やその近辺の駿府(府中)など静岡県の幕末の医師について調べてみると、著名な蘭方医だった戸塚静海の実兄に駿府(静岡市)の儒医戸塚柳斎がいる。幕末の医家の家系の戸塚家でも「柳」の「りゅう」を名にしている。「柳三」というのはその三男であったかどうかは全く定かではないけれど、戸塚柳三がのちに戸塚隆庵となったか、逆にボードイン門下生の人名録にある戸塚隆庵がのちに柳三となったか、そのようなことも考えられる。戸塚静海の直系ではないにしても、その実兄の戸塚柳斎の流れか、その周辺の親族である可能性は高いだろう。ということで、ここではこの「戸塚柳三」は「戸塚隆庵」と同一人物と考えておく。戸塚静海には養子でのちに海軍軍医総監となった戸塚文海(1835-1901)がいるが、戸塚隆庵はそれと同年代か少し若いくらいの義兄弟か従兄弟かと推定される。

佐藤泰然からの系譜:松本銈太郎と山内徳三郎からみる松本・佐藤・山内家のつながり

 さて、こうして松本銈太郎らの人物像を探って見えてくることのひとつに、この写真の中央に立つ二人の人物、松本銈太郎と山内徳三郎の縁戚関係がある。端的に言えば、松本銈太郎は佐藤泰然(幼名は田邊昇太郎、その後田邊庄右衛門から(母方の姓の)和田泰然、そして佐藤泰然)(1804-1872)の孫、山内徳三郎は佐藤泰然の甥にあたる。ここで、その系譜をとたどってみよう(図5)。

 言うまでもないことだが、松本銈太郎は松本良順の子(長男)である。父の松本良順は佐倉藩の蘭医で佐倉順天堂を開いた佐藤泰然(当時はまだ田邊庄右衛門)の次男だが、18歳で幕府医官松本良甫(りょうほ)(1806-1877)の元へ養子に出た。したがって、血の繋がりからすれば、松本銈太郎は佐藤泰然の孫である。一方、山内徳三郎の父親、山内徳右衛門(豊城)は、佐藤泰然とは若い時からの親しい学友でいずれ義兄弟の関係になった。というのは、佐藤泰然(田邊庄右衛門)は最初の妻との間に二人の子がいたが、その妻が子を置いて実家へ帰ってしまったあと、親友の山内徳右衛門がみかねて、自分の細君(旧姓川端せい)の妹(旧姓川端たき)を再婚相手として都合したという経緯がある。そうして、泰然とたきの間にできた7人兄弟のうちの次男が佐藤良順(のちの松本良順、松本順)だった。したがって、山内徳三郎は佐藤泰然の甥ということになる。そして、徳三郎の先代の時代から、佐藤泰然が長崎に遊学する折には妻子をこの山内家(東京の麻布にあった旗本家臣の屋敷)に預けている。したがって、山内徳三郎にとっては松本良順も松本銈太郎も近しい親戚だった。

 佐藤泰然の偉大さは言うに及ばずとも、この家系図にみえる山内豊城、山内作左衛門、山内堤雲、松本順、林董、松本本松らのその後の人生を知ってみれば、とてつもない家系であることが実感できる。ちなみに、松本良順の三男、松本本松の長男は銈太と名付けられていて、後年やはり医学博士となる。松本良順からすればただ一人の孫であって、そこにはドイツ留学後ほどなく夭逝した子、銈太郎への想いが伝わってくる。

図5
図5 松本銈太郎と山内徳三郎からみる松本・佐藤・山内家の縁戚関係。日本における近代医学の祖ともいえる佐藤泰然との関係性がよく理解できる。佐藤泰然の父、佐藤藤佐(さとうとうすけ)(1775-1848)も山内徳右衛門もともに旗本伊那氏に使えた同族だったという背景がある。(佐藤泰然の写真は順天堂大学 HP、山内豊城の写真は村上一郎著『蘭医佐藤泰然:その生涯とその一族門流』より転載)

    *     *     *     *     *

 こうしてみてくると、松本、山内に限らず、この写真の中の人物の多くは江戸時代の諸藩で医家の家系から将来を渇望されたエリートとしてオランダ軍医から直接先進的な西洋医学を学ぶべく派遣された人々だったことがよくわかる。昭和10年の史料ではかろうじて写真の人物の名前がわかっていただけだったが、それを基に調べてゆけば、このようにそれぞれの出身について人物像もかなり鮮明に見えてくる。さらに、歴史を振り返ってみれば、これらの人々が長崎を離れて諸藩に戻ったあと、どのような活躍をしたのか、その後どのような人生を歩んだのか、さらにはその子孫たちがどうつながっていったのか、そんなことも見えてくるに違いない。次にそれをとりまとめてみよう。

「長崎精得館受業生十三士」のその後:彼らはどこへ行ったのか?

 まずは、これまでと同様、出身藩ごとの流れでこの写真の志士たちのその後の人生を辿ってみるが、その全体像がわかるよう、この写真の周囲に各人の人生の要点を含めてその人物像をとりまとめておく(図6)。

図6
図6 「長崎精得館受業生十三士」の幕末志士たち:その人物像のまとめ。

1) 福井藩

 福井藩の4名のうち最も傑出していたのは半井元瑞(のちの)だろう。ポンペとボードイン、ハラタマから学んだ半井は福井に戻って、福井病院と医学校に勤務後、大阪に出て蘭医クリスチャン・エルメレンス(1841-1880、在阪は明治3年−10年(1870-1877))の下で大阪仮病院開設を指導し、病院局長となった。その後25歳のころ、東京帝国大学東校でテオドール・ホフマン(1837-1894、来日は明治4年―明治8年(1871-1875))の下で医学教育の助手を務めた。翌年(1873)、京都府の要請に応じて、療病院(現在の京都府立医科大学附属病院)の立ち上げに尽力し、初代病院長となった。その後、南禅寺方丈の一部を精神病院として整備した。明治11年のコレラ勃発に際しては京都府下の医師を指揮して防疫にあたっている。その後、京都府医学校長(現在の京都府立医科大学第2代学長)。京都府の医師会の初代会長にもなった。明治31年(1898)12月10日没。享年51。墓は南禅寺天寿庵。

高桑道準(のちの)は、慶応2年(1866)8月13日に帰郷し、福井県北部の足羽(あすわ)で地域医療を指導した後、福井病院、医学校での要職を勤めた。福井藩の医学教育は済世館(さいせいかん)を中心としたが、幕末から明治時代にかけて、長崎から医学教育用の人体模型、キュンストレーキを2体輸入している。長崎でポンペからの要請で日本に数体しかないが、福井にはそれがほぼ完全な形で男女2体がそろって今もある。ポンペの時代、万延元年(1860)に男体を、その後ボードインの時代、明治2年(1869)に女体を福井藩(県)が購入しているが、この2体目の購入には高桑らの進言が強くあったものと思われる。

山本良哉(のちの匡輔(きょうすけ))は慶応2年(1866)5月7日に帰郷。長崎での勉学は半年ほどだった。慶応3年(1867)自宅にて開業したとあるが、福井藩準三等教授医学掛、石川県二等医務取締等を務め地域医療に寄与している。35歳で済世館再興幹事に選出されて、その存続に尽くした。長命で幕末から昭和の時代まで生き、昭和6年12月22日に死去。享年87。

三崎宗玄(のちの嘯輔(しょうすけ))は元治2年(1865)1月、18歳で長崎へ出てボードインから蘭医学を学んだ。翌年、藩命で舎密学(化学)習得を命ぜられ、ボードインの後継者として来日したクンラート・ハラタマに随身し、分析究理所で化学を学んだ。幕府が長崎の分析究理所を江戸の開成所内へ移管するのに伴い、慶応3年(1867)、20歳の時にハラタマとともに江戸に入った。藩命で奥医師雇となり江戸と福井を度々往復している。翌年5月には養父、三崎宗仙が死去し、その家督(150石)を相続した。6月には会津従軍を命ぜられ会津五泉口に出征し、負傷者の治療にあたっている。11月に福井に帰藩するも、舎密局設立のため藩主より大阪府出仕を命ぜられた。教頭のハラタマの下、助教となり、この頃嘯輔と改名。ハラタマの講義の通訳を担当した。その後の制度改革で、明治4年(1871)、文部大助教から大学東校で理学化学の教授(現在の東京大学理学部教授に相当)となった。東京の下谷でドイツ語と化学の私塾も開いていたという。明治6年(1873)、26歳で福井に帰省し、5月11日、宗仙の娘、鈴と結婚するが、5月15日に急死した。死因は結核だったといわれる。享年26。墓は福井市安養寺。

2) 沼津藩(三河の飛地・大浜陣屋)

幕府崩壊の兆しで世情が揺らぐにつれ、近藤介石(のちの坦平(たんぺい))は故郷で親の跡を継ぐべく帰郷を決意した。長崎を発ったのは慶応4年(1868)の秋だったが、郷里に着いた時は明治の元号になっていた。帰郷後すぐに岡崎の縁戚、宇津野龍碩(りゅうせき)の長女、多田と結婚した。その後しばらくして、沼津藩の飛地だったところが菊間藩となり、廃仏毀釈に乗じた混乱(鷲塚騒動)があったが、とにかく明治5年(1872)近藤坦平は父の引退を受けて蘭方医としての医院洋々堂(のちの洋々医館)と蜂蜜義塾という私塾を併設して蘭医学の振興に努めた。これは当時、東海地方で唯一の西洋医学塾だったといわれる。
 坦平は信州松本の藩医から鶴見次繁(つぐしげ)を婿養子に迎えたが、その近藤次繁は帝国大学医科大学(現在の東京大学医学部)の外科の教授となった。有名な話としては、野口英世の左手の三度目の手術(有茎皮弁移植術)(明治30年8月20日)を成功させている。当時の日本の外科学の権威として名を馳せ、岸田劉生による「近藤医学博士像」(神奈川県立美術館所蔵)の油絵が残されている。次繁の子孫からは著名な医学者が多く輩出している。以下3名、みな故人だが、近藤駿四郎(日本医科大学脳神経外科教授)、近藤台五郎(東京女子医科大学消化器内科教授)、近藤東郎(慶応義塾大学医学部公衆衛生学教授)などである。
 近藤坦平は後年、愛知県連合医師会会長も務め、愛知県会議員にもなり副議長等も務めた。一時期は地元、碧海銀行の取締役にもなっており、地域医療に限らず政治、経済、医療の全面で大きく貢献した。昭和4年(1929)に84歳で死去。なお、洋々医館は昭和55年(1980)になくなったが今でもその跡地(碧南市鷲塚町)(旧鷲塚村)に大きな石碑が建っている。
 近藤介石(坦平)とともに長崎で学んだ近藤原賢は、帰郷後、坦平のいた鷲塚村の近くの天王村の村医となった。ここは天文16年(1547)に織田信長と今川義元の合戦があった場所で、信長はこの天王村の極楽寺周辺に火を放って敗走したといわれている。坦平も原賢もともに「協療社中」という医療組織に属した。これがこの地域の種痘施術、貧民救済、医療研究の中核となったのである。これはその後も「協療社」として終戦後まで存続したが、それが今の碧南市医師会となっている。宇津野碩順については知られていることが少ないが、おそらくは岡崎の地で地域医療に貢献したものと思われる。

3) 松江藩

松江藩から出た北尾漸一郎(のちの七代目北尾見輪、徳庵八世)は松江藩の名家の出で、のちのちその家系の当主となる。帰郷後、藩の医学校を主導し、西洋医学の振興に寄与したが、明治2年(1869)に松江藩医村松寛裕の次男、村松次郎を養嗣子とした。その北尾次郎(のちの北尾家八代徳庵九世)(1853-1907)は翌年、明治新政府の派遣でドイツ留学(1870-1883)した。最初の2年間はギムナジウムで独語を学んだあとベルリン大学に進学し、物理学を学び、光学で著名なヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821-1894)の下などで研究した。ゲッティンゲン大学で学位を取得。明治16年(1883)に帰国し、その後東京帝国大学理学部の教授となった。物理学、数学、気象学など幅広く活躍して理学部、農学部分野でも活躍した。ドイツ留学時代の女性ルイーゼ(留枝子)(1864-1929)と結婚しており、森鴎外(1862-1922)(ドイツ留学は1884-1888)の著名な小説『舞姫』の主人公、太田豊太郎のモデルという説もある。北尾次郎自身も、ドイツ留学中に手書きのドイツ語での長編小説『森の女神』を著したという。北尾次郎と森鴎外のドイツ留学は重なってはいないが、その影響については大変に興味深いものがある。

 熊谷亮海については情報が少ないが、北尾漸一郎(見輪)と同様、松江での地域医療に貢献したものと思われる。

4) 会津藩

会津藩からの馬島済治(のちの小松済治)(1848-1893)は精得館で医学を学ぶ傍ら、立神の造船所(現在の三菱重工業長崎造船所)に来ていたカール・レーマンからドイツ語を学んだ。その背景には、会津藩の武器調達にからんだ藩命によるカール・レーマンへの接近があった。レーマンはのちに造船技師から幕末の動乱期に日本に大量の武器(鉄砲など)を輸入仲介する武器商人に転じた。このレーマンへの馬島の接近は会津藩士で砲術家だった山本覚馬(かくま)(1828-1892)(のちの京都府議会初代議長、京都商工会議所会長、京都府顧問)からの指示によるものである。山本覚馬は当時、元治元年(1864)、砲兵隊を率いた禁門の変で功績を挙げたが、眼病を患いほぼ失明の危機にあった。会津での主治医は馬島済治の父、馬島瑞謙だった。山本覚馬は慶応2年(1866)の暮れに中沢帯刀と共に長崎に赴いてカール・レーマンと鉄砲購入の交渉を行うが、馬島済治がその通訳を務めている。山本覚馬と中沢帯刀は翌慶応3年(1867)4月1日付でレーマンから会津藩へシュンドナールドゲベール銃1,000丁の購入契約を結んだ。山本覚馬は、この長崎滞在中にボードインから目の診察を受けたが、これには当然、馬島済治の仲介があったはずである。

 馬島済治はその後、紀州藩と会津藩に納める鉄砲調達へと一時帰国するカール・レーマンと共に慶応3年(1867)6月にドイツへ渡った。カール・レーマンは長崎から当時京都にいた山本覚馬に宛てた手紙(1867年5月11日付)の中で、「馬島済治のことを弟のように配慮し、途中パリでは大博覧会を見学させるつもりでいる」と書いている。馬島は長崎から上海、パリを経由してドイツへ行った。ハイデルベルク大学で初めは医学を学んだが、いずれ法学へ転向した。馬島は4年後、明治3年(1870)3月に帰国したが、会津藩が戊辰戦争に敗れていたため、しばらくは先祖の土地でもあった紀州、和歌山藩に仕えた。この頃、馬島姓から小松姓(祖父以前の姓)としている。

 ところで、会津戦争のために長崎まで出向いて鉄砲調達の契約を結んだ山本覚馬の妹八重(1845-1932)はのちに新島八重となる人である。八重は26歳の時に当時京都府顧問となっていた山本覚馬を頼って米沢から京都へ入った。兄の覚馬は、その当時米国から宣教師となって帰国し、京都でキリストの教えを基礎として高等教育をめざして同志社女学校(のちの同志社女子大学)の設立へ奔走していた新島襄(1843-1890)を、京都府顧問の立場から後押しもし、妹の八重を新島に嫁がせた。明治9年の1月3日のことで、これにより山本覚馬は新島襄の義兄となった。そのようなわけで、馬島(小松)済治は、山本覚馬や新島襄、さらには山本覚馬が傾倒していた西周(1829-1897)の西洋思想の影響を強く受けながら、明治新政府の官僚として生き延びていった。兵部省時代には明治4年の暮れから岩倉具視の使節団に随行して欧米諸国を巡歴し、ウィーン万博(明治6(1873)年)担当の事務官にもなった。その後、官房局、陸軍省から判事に転じて、司法省、裁判所(横浜地方裁判所長)に勤務した。ドイツの法学者の国家論を『建国説』として翻訳出版もしている。明治26年(1893)、東京にて死去。享年45。

5) その他

 山内徳三郎も、医学とは別世界に生きた。地質学者、鉱山や油田の調査開発の技師として、主に北方で生きたのである。徳三郎は長崎遊学のあと、兄の堤雲とともに北海道開拓使に勤めている。山内堤雲は幕末の戊辰戦争で榎本武揚(1836-1908)率いる旧幕府軍として蝦夷地平定を進めたが、結果的には箱館戦争に敗北したあと、一時獄中にあったが、新政府軍の参謀だった黒田清隆(1840-1900)に才能を見出されて、北海道開拓使に登用されている。弟の山内徳三郎は、長崎に遊学する前、長兄の作左衛門と樺太探検に出たこともあったが、とにかくそのような経緯で、兄の山内堤雲とともに北海道の開拓に尽くすことになった。徳三郎は開拓使の御用掛・翻訳掛になった。そんな流れの中で特筆すべきは、山内が日本での鉱山開発や油田調査の基礎を作っていったことである。明治新政府の官吏として、開拓使開採事務係、農商務省炭鉱課長、北海道庁幌内出張所長、農商務省鉱山局長を歴任した。鉱山開発が軌道にのるきっかけは米国からお雇い外国人として明治5年(1872)に来日した鉱山学者、ベンジャミン・スミス・ライマン(1835-1920)から最も信頼された助手として働いたことにある。山内がライマンに初めて出会ったのは明治6年の春、ライマン38歳、山内29歳の時だった。ライマンは在任中関わった多くの日本人の中で山内のことを“honest man”と評して、米国へ帰国したあとも長く親交が続いた。マサチューセッツ工科大学の図書館には今も、ライマン・コレクションの一つとして山内徳三郎の晩年の家族写真が丁寧に保管されてある。ライマンと山内は最初、北海道にはじまり、次いで全国の鉱脈と油田調査に回った。重要な貢献のひとつは明治7年(1874)、夕張川上流に石炭層の存在を推定したことで、その後、明治21年(1888)になって当時の随行者たちと夕張のシホロカベツ川上流に石炭層の露出(夕張の石炭大露頭)を発見している。それが夕張炭鉱の開発の始まりとなった。山内は夕張の北の幌内炭鉱の開発にも寄与している。その後、全国の地質調査を進める中で、山内徳三郎は特に九州北部での炭鉱調査の報告を詳細に記録した。(「福岡佐賀長崎三県下炭坑巡回報告書」(明治17年(1884))。また、明治44年には『ベンジャミン・スミス・ライマン小伝』を著している。恩師への熱い想いがあってのことと思われる。山内家には著名人が多いが、近年では、カミオカンデのノーベル賞を受賞した小柴昌俊を教えた東京大学の物理学の教授、山内恭彦(やまのうちたかひこ)(1902-1986)がいる。徳三郎の兄、山内堤雲の孫である。

 写真の右側に立って本を広げているもう一人の大男は戸塚柳三だが、前述のようにこれはボードイン門下生のリストにある戸塚隆庵(三郎)であろうと考えた。長崎での直接の師匠(班長か医局長のような立場)は戸塚静伯となっている。この戸塚静伯に属したのは、この写真の中の人物としては他に松江藩の熊谷亮海がいる。前節にも書いたが、戸塚隆庵は一世代前に遠州掛川から長崎に出てシーボルトに学んだ戸塚静海の親戚の一人だろうと思われる。しかし、それにしてもその後の足取りが掴めない。興味深いことに、戸塚隆庵は、長崎に来る前、江戸で日本の近代化学の父、日本でのビール醸造の基礎を作ったともいわれる川本幸民(1810-1871)の洋学塾への入門者リストにもその名前がある。戸塚の興味は医学だけではなく化学など基礎学問にも広かったのかもしれないが、いずれにせよ戸塚隆庵のその後の人生はよくわかっていない。

 最後に写真中央にいる松本銈太郎のその後についてまとめておく。ボードインが医学以外に物理化学の基礎学問の教育の重要性を説いてオランダから呼び寄せたハラタマを乗せた船が、慶応2年(1866)の4月に長崎港に着いた。ボードインはすでにその船でオランダへ一時帰国することを決めていたがその折、松本銈太郎、緒方洪哉(惟準)(おがたこれよし)(1843-1909)、赤星研造(あかぼしけんぞう)(1844-1904)、武谷椋山(たけやりょうざん)の4名を同行させた。これが幕府派遣第二次オランダ留学生となる。オランダ船は4月18日に長崎を出て28日横浜港に到着したが、長崎にいた緒方はそれより先に、おそらく大阪を経由して江戸へ、一方、松本は筑前藩の赤星、武谷とともに江戸へ出立し、松本は江戸で父、良順の元へ立ち寄ったと思われる。ボードインも江戸で、5月10日に翌年以降の再雇用確定の知らせを受けて、5月29日(西暦では7.1)、松本、緒方、赤星、武谷の留学生4人と合流し、横浜港へ向かった。そこからオランダ船で南回りで香港、上海を経由して欧州へ向かい、フランスのマルセイユから同年7月10日(西暦では 1866.8.9)にパリに到着した。松本と緒方はユトレヒト陸軍軍医学校へ入学したが、赤星と武谷は別行動をしている。((注)赤星研造の記録では複数の情報筋でこの欧州への渡航が慶応3年(1867)となっているが、他者の情報からすればそれは慶応2年(1866)の間違いと思われる。のちの図8参照。)松本は緒方とともにユトレヒトの医学校で勉学したが、日本での幕府崩壊の兆し「本朝之風評」を伝え聞いて、他の先陣の留学生とともに帰国を決意した。要は、幕府からの多額の留学費用が頓挫する危険性があったのである。松本、緒方は一次留学生として先にオランダに来ていた赤松則良(1841-1920)とともに慶応4年(1868)3月23日(西暦4.15)パリに移動、栗本鋤雲(くりもとじょううん)(のちの安芸守)(1822-1897)らフランス留学生の一行と合流して5月17日(西暦では6.24)に横浜港に帰着した。その後、緒方は江戸の医学所の教授となり、次いで大阪仮病院(大阪大学医学部の前身)の院長になった。松本は明治2年(1869)大阪の化学研究施設、舎密局の助教になったが、その後再び渡欧して、明治4年(1871)ドイツのベルリン大学のホフマン(August Wilhelm von Hofmann, 1818-1892)研究室へ留学した。地道に化学研究を重ねて、明治8年(1875年)にホフマンが主幹したドイツ化学会の学術雑誌 ”Berichte der Deutschen Chemischen Gesellschaft” に”Ueber Phenyloxycrotonaure” と題して論文発表をしている。これが、日本人として初めて海外の学術雑誌に論文公開の第一号と考えられている。しかし、それから2年後、松本銈太郎は明治10年(1877年)、脳溢血で倒れた。さらに下肢脱疽(ビュルガー病?)となって、ベルリンで手術を繰り返したが回復せず、明治11年、急遽帰国の途についた。ただ一人病体を船室に横たえる苦難の長旅の中、かろうじて何とか帰国することができた。しかし治療の甲斐なく、翌12年4月16日に死去。享年30。早稲田の両親の膝下にて安らかに眠ったという。墓は東京谷中。

    *     *     *     *     *

 以上、この写真の13名の志士たちのその後の人生をとりまとめた。一部にはその後の生き様が不明のものもありはしたが、多くが京都、福井、三河、松江など郷里に近いところで医学校や大学病院の開設や維持運営に携わり、地域医療に貢献した。また、語学を生かしてオランダやアメリカからの学者の通訳として日本の化学や鉱山学、地質学の発展に貢献し、あるいは明治新政府の官僚として活躍した人もいたことが明らかになった。そのうち3名は傘寿を超える長寿を全うしたが、中には26歳や30歳の若さで、将来を渇望されながら急死した者もいることもわかった。簡略ながら、その全体像を図7にまとめておく。

図7
図7 「長崎精得館受業生十三士」のその後の人生。

「長崎精得館受業生十三士」古写真の5W1H:撮影の時期と背景について

 当時の長崎の精得館においてボードインの門下生として蘭医学を学んだ諸藩からの精鋭たちの人物像について調べてみると、このようにいろいろと興味深い事実が明らかになってきた。では、次に、この写真そのものについての疑問を解いてみようかと思う。いわゆる「5W1H」だが、この写真は「いつ」「だれが」「どこで」「何を」「なぜ」「どのように」撮影したのだろうか?

 まず、「何を」についてはボードイン講義の受講生のうち13名の志士たちを写していることで間違いない。その人物像についてはこれまでに記述したとおりである。まさにそれが「長崎精得館受業生十三士」である。しかし、ここではただの人物の撮影だけでなく、その場の設定が特殊である。それはいかにも西洋医学の基本である解剖学の勉学を真摯に行う姿として捉えようとしている。つまり「解剖学講義」の現場を演出している。実は江戸時代に相当するオランダの近世、17、18世紀にはオランダではしばしば「解剖学講義」と称して集団肖像画が描かれている5), 6)。その習慣を知ってか知らずにか、意図的にせよ偶然にせよ、この写真のイメージは17、18世紀におけるそれらオランダにおける「解剖学講義」の雰囲気にとてもよく似ていることは指摘しておくべきことだろう。ここでは単に人物だけでなく、その「解剖学講義」の場を捉えようとしていたのである。

 では「だれが」撮影したのか? それには二つの可能性がある。写真と趣味としていたオランダ軍医ボードインか長崎のプロの写真師上野彦馬(1838-1904)だ。ボードインは軍医であり医学指導者であったが、当時、西洋の最新技術のひとつでもあった写真術を趣味にしていて、個人用の写真機を持っていた。しかも集合写真をとるのを大変に好んでいた節もある。長崎でも東京でも、大勢の学生たちと、特に惜別の折には学生たちの姿を必ず写真に納めていた。しかし、この写真の精度は当時としては高質に思える。それからすると職業写真師によるものとするのが現実的だろう。当時の長崎での写真師といえば上野彦馬だ。被写体としての13名の志士たちの立ち姿や振る舞いなどについてもいかにもプロの写真師が注文をつけて最上の一瞬を捉えた、そのように思える。したがって、これは上野彦馬によるものと思える。

 次に「どこで」についても二つの可能性がある。医学校としての精得館の部屋か、あるいは写真館の撮影室か、そのどちらかだろう。つまりこの13名の志士たちが写真館に出向いたのか、あるいは写真師が精得館に出向いたのか? という疑問だ。可能性として高いのは後者であろう。当初はそのように考えた。ここには頭蓋骨や胸骨などが写し込まれているが、それを外へ持ち出すことはなかなか憚られたことだったろう。一方で、写真師のほうは当時でも風景写真を撮るなり、大型の当時の写真機一式を持ち運んでいって現場で撮ることはよくあることだった。そういうことで、これは精得館での撮影と考えるのが妥当かと思われる。左側には障子がある。その高さは当時の普通の日本家屋の部屋よりもだいぶ上までいっている。これは西洋式の医療を行う小島養生所としてオランダ軍医のポンペの意見を入れて建てられたものであるから、この部屋の高さからするとこれはいかにも精得館なのかもしれない。そのように思っていたのだが、ある時、古写真研究家の高橋信一氏の記述7) の中で、この写真に写るテーブルクロスと左側の障子の様子から、これは上野彦馬の写真スタジオで撮影されたものとされていることを知った。したがって、精得館や分析究理所の部屋ではなく、幕末長崎の写真家の上野彦馬の写真スタジオだったと結論できる。

 では、次に「いつ」について考えてみよう。まず、冒頭で参照した豆田氏の判読史料(図2)の右下角には「嘉永慶応年代」との記載がある。嘉永は1848年から1854年まで、慶応は1865年から1868年までである。その間には安政、文久、元治がある。それから考えると、ここに「嘉永慶応年代」とする記述はいかにも曖昧すぎる。というのは、ポンペが来日したのが安政4年(1857)、ボードインの来日は文久2年(1862)で慶応2年(1866)にオランダへ一時帰国する。この写真に写る志士たちがボードインの門下生であるということからすると「文久2年〜慶応2年」つまり「文久慶応年代」に絞られるだろう。その上で、次に考えるべきことは、ここに写る13名の長崎にいた時期を特定していくことが重要になる。多くの資料からできるかぎり各人の長崎滞在期間を調べて、それをとりまとめたのが次の図である(図8)。その結果からすると、この写真が撮られた時期は「慶応2年(1866)の1月から3月の間」と思われる。先の高橋氏の分析7) ではこの写真の撮影時期は慶応元年の半ば頃と推定されているが、福井藩の山本良哉の緻密な講義記録などの記述から、慶応2年の1〜3月と考えるのが妥当だろう。

図8
図8 「長崎精得館受業生十三士」の撮影時期の推定。写真の志士たちの長崎滞在期間(特に、山本良哉の記録)からこの写真の撮影時期を絞り込むことができる。それはちょうど幕府から第二次オランダ留学生に松本、緒方、赤星、武谷が選出されたとする時期に重なった。

 次いで、この写真は「なぜ」撮影されたのか? それを考えるには、上の考察で絞り込んだ撮影時期と写る人物とその姿が大きなヒントになる。撮影時期は松本銈太郎が第二次オランダ留学生として緒方、赤星、武谷とともにボードインについてオランダへ渡るその直前、または精得館に隣接して創設された分析究理所の教官としてハラタマが来崎してボードインが一時帰国する、その直前である。この写真に写る人物13名の中で中央に立ち、まっすぐにこちらを向いている、つまり写真機のレンズを真正面から鋭く見つめているのは松本銈太郎だけである。他の人物はいかにも「解剖学講義」にからむ仕草、書物に目をやる、頭蓋や顎骨をみつめる、考え込む、あるいは他者の様子を見つめる、そんな姿としていわば協奏曲のように演出されている。その中心にあるのは松本銈太郎一人なのである。つまりこれは松本銈太郎のために撮られた写真なのだろう。松本の留学を祝う。あるいは松本の旅立ちの前に、大切な仲間たちとここで医学を学んだ、その姿を留めておく。そのために撮られたものと思える。松本とともにオランダ留学した赤星研造の記録からすると、この第二次オランダ留学生の人選が決まったのは2月ころとあるので、それへ向けての渡航準備を始める「3月頃」と考えるのがもっとも妥当かとも思える。おそらくこの、いわば「記念写真」の撮影は松本良順の指示があってのことかと思える。良順は長崎のことを知り尽くしている。上野彦馬のことも含めて。松本良順が江戸から長崎へ送り出した我が子の銈太郎が、長崎を離れてオランダへ留学する、その記念に長崎での医学修養の姿を一枚の写真として留めておくよう、銈太郎にも、また上野彦馬へもそう指示したのではないだろうか。

 そして、最後に「How」「どのように」についてだが、それは写真師がそれなりのセッティングをし、各人に指示を出して、昔の湿板写真であるから露光の間、5秒から10秒ほど静止してもらう。両端に立つ半井元瑞と戸塚柳三はかなりブレたように写っていて、それは冒頭のところでみた豆田氏の史料(図2)にある「朦朧者」だが、それは彼らが動いたためではなく、レンズの中心から離れた外周で焦点が定まらないからという技術的な理由なのであろう。

 さて、もうひとつ、この「How」にからめて、「どうして」このメンバーで撮ったのか? それは当時長崎にいたボードイン門下生の中で松本銈太郎の仲間たちだったと考えるのが妥当であろう。当時精得館にいた仲間全員が写っているのではない。そのうちの、松本銈太郎にもっとも近しい人物を集めて撮っている。江戸から一緒に長崎行きを同行してくれた三河の近藤介石たち、山内徳三郎は松本良順の親戚で、あと会津藩からの馬島済治(小松済治)も松本銈太郎を師匠としていた。福井藩の4名は名簿の上では松本が師匠との記載はないが、おそらくは長崎で親しくなった者たちだったのだろう。この写真の謎解きからみえてくるもの、それはこれが松本銈太郎の旅立ちを記念する一枚として、おそらくは父、松本良順が仕組んだ息子の人生の節目を祝う、その一枚としたものだったと思われる。蛇足だが、費用はすべて良順もち、ということだったのだろう(これはあくまで私見)。

 しかし、それはそうだとしても、このような「解剖学講義」の形で自分の姿が収められることは、銈太郎以外の人々にとっても当時の仲間と一緒にいる姿は誰にとってもうれしいことだったに違いない。その一例が、この写真の一番左の人物、半井元瑞の下にある「バツ印」に現れている。それについて次に言及しておこう。

「長崎精得館受業生十三士」古写真の比較解剖学

 今回調査した幕末古写真は順天堂大学と長崎大学に所蔵されているものだが、当時の湿板写真の硝子原板から写されたものではない。より原板に近いものの存在がこの調査の過程で明らかになった。それが昭和10年の中外医事新報(1216)に掲載された写真である。そこでの解説には、「京都半井家所蔵の写真、その親戚山田氏より贈られたるもの」とある。この写真の一番左手に立ち右手にもつ何か人骨らしきものを見つめる男が半井元瑞(のちの澄)で、すでに述べたように、半井澄は現在の京都府立医科大学病院の元になる京都療病院の初代院長になった人物である。その子孫も京都在住だったとみえて、昭和初期にも半井家は京都にあったのだろう。

 その半井家が所蔵していた写真と現存の順天堂大学と長崎大学の写真を比較してみると、原板は同じだが、全く同じ写真ではない。それが、冒頭部分で「ほぼ同じ写真」と書いた理由である。現存のものは明らかに「複写」で、その複製過程で付いたとおぼしき不純なしみ(ウォーターマーク)のようなものがいくつも見受けられる(図9、矢印)。それらのしみは昭和10年の写真(図9、右)にはない。

 ただ一点、この写真をみたときに不可解だったことがある。それは、この一番左にたたずむ人物の下にだけ「 X 」が付けられていることだった。なぜ、ここにだけ「バツ印」があるのか? それは、今思えば、これが「半井家」所蔵のものだったからとすれば納得がいく。親戚に見せる時にも、この人物が「半井澄」だとする、その印だったのだろう。

 現存の順天堂大学と長崎大学の所蔵写真は、この半井家に残された写真からの複写だったということが結論される。ちなみに、冒頭で紹介した豆田氏の史料の「参考1」にあった人物特定のために重要な説明資料(図2参照、原図は順天堂大学所蔵)にも多数のしみが見受けられた。半井家保存の写真とともに、昭和10年以降複製される過程でこのしみのようなウォーターマークが多数残る形で複製されてしまっている。蛇足ながら、こういう推理は、「古写真学は形態学である」という視点で見ることで解読される8,9)

図9
図9 2枚の「長崎精得館受業生十三士」の比較

おわりに

 以上、幕末に撮られた一枚の「解剖学講義」にまつわる古写真の謎解きを進めてきた。いわば、「解剖学講義」を解剖してみた。昭和10年の日本医史学会の記録では彼らの名前が記載されていただけだったが、その名前を手がかりに各種郷土史料などを参照することで、ここにいる幕末志士13名のその後の人生も明確になった。諸藩から長崎に出てオランダ軍医、アントニウス・ボードインらに学んだ学徒、ほぼ全員の人物像を明らかにできた。写真が撮られたのは、おそらく松本銈太郎のオランダ留学が決まった直後、すなわち慶応2年(1866年)の3月頃と思われる。そこにいたのは、当時ボードインに学んださらに多くの学徒たちのうち、おそらくは松本銈太郎の親しい仲間たちだった。半井元瑞(澄)、三崎宗玄(嘯輔)、近藤介石(坦平)、北尾漸一郎(見輪)、馬島済治(小松済治)、山内徳三郎、そして松本銈太郎たちの若き姿も、またその後の人生も、この古写真研究で見えてきたことを通じて、ある意味では彼らの姿も人生も新たによみがえった。最近はAI技術の進展によって古写真をカラー化したりしみなどを除去するツールも出てきたりしている。ちなみに、そのような自動カラー化ソフト(MyHeritage)で「長崎精得館受業生十三士」を処理してみると次のようになった(図10)。まさによみがえった、と言えるかもしれない。

図10
図10 よみがえる幕末志士たちの解剖学講義。カラー化された「長崎精得館受業生十三士」古写真(MyHeritageによる処理)。

【参考文献】

  1. 「長崎精得館受業生十三士」(順天堂大学所蔵・長崎大学附属図書館所蔵)
  2. 豆田誠路:史料紹介 長崎精得館ボードイン受業生名簿「鵬氏門徒伝習人名前姓名簿」碧南市藤井達吉美術館硏究紀要(2019年3月刊行)
  3. 研医会通信92号、公益財団法人研医会図書館(2013.6.5)
  4. 中外医事新報(1216):国立国会図書館デジタルコレクション、日本医史学会(昭和10年2月)コマ番号(28/33)p96-97(1935)
  5. フランク・イペマ、トーマス・ファン・ヒューリック(著)森望、セバスティアン・カンプ(訳)『オランダ絵画にみる解剖学』(東京大学出版会)(2021)
  6. 森望:オランダ絵画にみる解剖学:阿蘭陀外科医のサージカルトレーニングとしての解剖学教育(第127回日本解剖学会総会・全国学術集会・教育講演(一般)3(2022.3.28)
  7. 高橋信一『古写真研究こぼれ話三』pp17-21(渡辺出版)(2016)
  8. 森望:セピア色の解剖学、長崎大学附属図書館報 No.121, p8-10 (2014)
  9. 森望:『明治の長崎撮影紀行:小川一真と江南信國のはるかなる旅路」』(古写真学は形態学である)長崎文献社(2014)
福井藩関係の参考資料
  1. 半井澄:デジタルアーカイブ福井
    https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=080-1903698-0
  2. 藤田俊夫、半井英江:秋山半井澄(1847-1898)―――京都府療病院長・医学校長・医師会創始者、日本医史学雑誌 46 (3) 442-443 (2000)
    http://jsmh.umin.jp/journal/46-3/442-443.pdf
  3. 松田武:大阪仮病院の創設(二)、大阪大学学術情報庫
    https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/6683/
  4. 鵬氏新精眼科全書(1)、研医会通信90号(2013.4.9)
    http://ken-i-kai.org/homepage/index1304.html
  5. 鵬氏新精眼科全書(3)、研医会通信92号(2013.6.5)
    http://ken-i-kai.org/homepage/index1306.htm
  6. キュンストレーキ:福井市立郷土歴史博物館
    http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/gakko/for_students/bakumatsu/kunstrijk.html
  7. 町泉寿郎:UCSF図書館所蔵の福井済生館文書、第112回日本医史学会総会(一般演題)
    http://jsmh.umin.jp/journal/57-2/57-2_155.pdf
  8. 熊澤恵里子:幕末維新期の福井藩政改革と藩校:地方教育史研究の視点から
    https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2003bulletin/images/2003kumazawakiyou.pdf
  9. 柳沢芙美子:福井からの痘苗の伝播と鯖江藩の種痘、福井県文書館研究紀要 17, 53-71
    https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/08/2019bulletin/yanagisawa.pdf
  10. 岩治勇一:福井県人の誘導した西洋文化の啓蒙書、日本医史学会雑誌 38 (1) 121-132 (1992)
    http://jsmh.umin.jp/journal/38-1/121-132.pdf
  11. 三崎嘯輔の生涯、福井大学地域環境研究教育センター研究紀要 21, 51-78 (2014) (福井大学リポジトリ)
    http://hdl.handle.net/10098/8814
  12. 菅原国香、板倉聖宣:幕末・明治初期における日本語の元素名(II):元素の日本語名の成立過程の研究、科学史研究 II, 29, 13-20 (1990)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/jhsj/29/173/29_13/_article/-char/ja/
  13. 椎原庸:ハラタマと大阪舎密局:ただ一人の蘭人理化学教師の来日、科学と教育 37 (5)-476 (1989)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/kakyoshi/37/5/37_KJ00003508149/_article/-char/ja/
  14. 芝哲夫:舎密局について、生産と技術 27-35
    http://seisan.server-shared.com/16/169-27.pdf
  15. 梶谷恭巨:幕末における英語学校について、柏崎通信
    http://kashwazakitushin.blog.shinobi.jp/
  16. 高瀬武平:紀要発刊を祝し、明治開明期の郷土医学界の基礎を築いた人々の覚書、福井医科大学一般教養紀要 1, 1-9 (1981)
    http://hdl.handle.net/10098/5305
碧南の沼津藩飛地(大浜陣屋)および三河(岡崎近郊)関係の参考資料
  1. 近藤坦平:碧南人物小伝 17 p34-35 (2010)
    https://www.city.hekinan.lg.jp/soshiki/kyouiku/bunkazai/bunkazaikakari/1_7/1097.html
  2. 碧南市、平成28年度歴史系企画展「碧南の医人展」
    https://www.city.hekinan.lg.jp/soshiki/kyouiku/bunkazai/bunkazaikakari/tenji/1_8/1108.html
  3. 医療ツーリズムと「洋々医館」、日本福祉大学、ふくし新書
    https://www.fukushi-shinsho.com/2017/02/000077.html
  4. 磯貝国雄:棚尾のお医者さん(平成24年12月19日)
    https://www.city.hekinan.lg.jp/material/files/group/7/katarukai18.pdf
  5. 丸善にゆかりのある医師たち: (2020-04-30)
    https://koala555.hatenadiary.jp/entry/2020/04/30/193246
  6. 志村俊郎、唐沢信安、殿崎正明、岩崎一、寺本明:野口英世の左手の「わが国初の有茎皮弁移植術」、日本医史学雑誌 53 (1) 112-113 (2007)
    https://cir.nii.ac.jp/crid/1573105975197985152
  7. 広瀬毅彦:北尾次郎周辺から見た『舞姫』成立過程、島根大学学術リポジトリ
    https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/list/recent_addition/p/477/item/34869
  8. 北尾次郎ルネサンスプロジェクト(科学研究費助成事業研究成果報告書 25560130)(2013~2016)
  9. 梶谷光弘:華岡鹿城末裔所蔵の「華岡門人録」について(1)、日本医史学雑誌 58 (1) 75-84 (2012)
    http://jsmh.umin.jp/journal/58-1/58-1_75.pdf
  10. 華岡青洲(3 代随賢)末裔(本家)所蔵の 国別門人録について(1) 、日本医史学雑誌 59 (13) 425-440 (2013)
    http://jsmh.umin.jp/journal/59-3/59-3_425-440.pdf
  11. 柴田勝豊の末裔柴田知憲岡崎地方史研究会書記旗本と明治維新
    https://ameblo.jp/reikaiindenkanshochikenk/
  12. 大浜陣屋、沼津藩飛地
    http://edononagori.fan.coocan.jp/oohamajinya275igai_aiti.html
    https://www.city.hekinan.lg.jp/soshiki/kyouiku/bunkazai/bunkazaikakari/bunkazaisisetu/1101.html
松江藩関係の参考資料
  1. 梶谷光弘:松江藩医北尾家の系譜について、松江歴史館研究紀要 4, 1-10 (2014)
    https://cir.nii.ac.jp/crid/1010282257217404562
  2. 梶谷光弘:『日本教育史資料』所収「旧松江藩医学校」の記述検討(前編):藩医の登用からみた医学教授山本逸記の評価を中心として、島根大学教育学部付属中学校研究紀要 35, 95-124 (1993)
    https://cir.nii.ac.jp/crid/1050564288464586624
  3. 田籠博:松江藩医学校教授山本家の事跡、鳥取大学学術情報リポジトリ
    https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/3147
会津藩関係の参考資料
  1. 小松済治
    http://satomi-rose.ciao.jp/aizu/小松済治.html
  2. 日本初のドイツ留学 小松済治
    https://nagatoya.net/?mode=f13
  3. 山本覚馬:会津藩の砲術指南役から京都府議会の初代議長へ
    https://jpreki.com/yamamotokakuma-1/
  4. 兄・山本覚馬について、(同志社大学)新島八重と同志社
    https://www.doshisha.ac.jp/yae/about/kakuma.html
その他の参考資料
  1. 北海道開拓の基礎を築いた指導者たち 7
    http://www.homas.sakura.ne.jp/hokkaido/sub07.html
  2. 北海道鉱業開発先駆者、ベンジャミン・ライマン
    https://keyakinokaze.cocolog-nifty.com/rekishibooks/2021/01/post-ca3a2e.html
  3. 副見恭子:ライマン雑記(14)、地質ニュース 520号 42-47頁 (1997)
    https://www.gsj.jp/publications/pub/chishitsunews/news1997-12.html
  4. 今津健治:山内徳三郎著『ベンジャミン・スミス・ライマン氏小伝』日本エネルギー史研究会 10, 90-97 (1979)(九州大学学術情報リポジトリ)
    https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD100000&opkey=&bibid=13675&start=
  5. 加藤進:ライマンと弟子たちによる油田調査:昔の石油開発あれこれ(1)、石油技術協会誌 83 (3) 214-219 (2018)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/japt/83/3/83_214/_article/-char/ja/
  6. 春日豊:北海道石炭業の技術と労働(国連大学 人間と社会の開発プログラム研究報告)(1981)
    https://d-arch.ide.go.jp/je_archive/society/wp_unu_jpn48.html
  7. 青山英幸、遠藤一夫:(資料紹介)山内徳三郎「福岡佐賀長崎三県下炭鉱巡回報告書」(1884年4月)
    http://www.jshit.org/kaishi_bn1/09_1aoyama.pdf
  8. 近藤順一:創業期の資生堂と福原有信の経営戦略、経済科学論究 14, 67-80 (2017)
    https://cir.nii.ac.jp/crid/1390572174766932864
  9. 森川潤:維新期のドイツ留学生の光と影:ドイツ大学最初の日本人学籍登録者赤星研造について、日本医史学雑誌 40 (4) 447-465 (1994)
    https://cir.nii.ac.jp/crid/1573387451110846336
    http://jsmh.umin.jp/journal/40-4/447-465.pdf
  10. 上田修一:最初に海外学術雑誌に発表した日本人は誰なのか、慶応義塾大学文学部(2011)
    http://user.keio.ac.jp/~ueda/papers/journal2011.pdf
  11. 津田進三:江戸時代、静岡県における蘭方医学の普及。特にその学統について、日本医史学雑誌 38 (1) 25-47 (1992)
    http://jsmh.umin.jp/journal/38-1/25-47.pdf
  12. 小川鼎三(おがわていぞう):佐藤尚中伝(1)〜(3)(順天堂史より)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjmj/18/1/18_112/_article/-char/ja/
  13. 酒井シヅ:佐藤泰然伝、順天堂医学 51, 272-275 (2005)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjmj/51/2/51_272/_article/-char/ja/
  14. 村上一郎:蘭医佐藤泰然――その生涯とその一族門流――伝記叢書139(大空社)(1994)(原書は昭和16年刊行)
  15. 鈴木要吾:蘭学全盛時代と蘭疇の生涯――伝記叢書137(大空社)(1994)(原書は昭和8年刊行)
  16. 京都府立医科大学 創立150周年記念事業特設サイト(府立医大の歴史:沿革、略年表、歴代学長)
    https://www.kpu-m.ac.jp/doc/about/history/index.html
  17. 順天堂大学日本医学教育歴史館
    http://www.juntendo.ac.jp/jmehm/
  18. 長崎薬学史の研究、第二章、近代薬学の導入期、1。ポンペ、ハラタマなどオランダ医師薬剤師の渡来
    http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/cp2/chapter2-1.html
  19. その他、Wikipediaの関連サイト

(このページの公開日:2022年8月)

Anatomage Japan 株式会社

脳科連

IFAA2024

バナー広告の申込について