鈴木尚の人類学

木村 賛
東京大学

解剖学雑誌98巻pp.71~72 (2023)(許可を得て転載)
木村賛
西アジア調査中の鈴木教授

 1912年3月24日に出生し2004年10月1日に92歳で亡くなられた鈴木尚先生は,私の恩師である.先生については,Anthropological Science( Japanese Series)から依頼され追悼文を載せた(木村 2006).この際は私の主観的思いも書いたが,今回の肖像執筆方針は客観的とある.この方針になるべく添えるようこの先は敬称・敬語なしで進めることとする.先の追悼文との重複があることはご容赦願いたい.

 鈴木の主な研究は古人骨の骨格人類学である.80歳を記念し単行本を除くおもな文献をまとめて「鈴木尚骨格人類学論文集」(鈴木尚先生傘寿記念会 1992)が出版された.ここにあるその年までのおもな経歴は以下の通りである.1936年3月東京帝国大学医学部医学科卒業,同年5月から同学部解剖学教室助手,1939年同大学臨時医学専門部講師,1943年同大学理学部人類学教室専任講師,以降助教授,教授と昇格し1972年定年退職まで人類学教室の主任を務め,東京大学名誉教授,1972年国立科学博物館に人類研究室を創設し室長,1973年より1976年定年まで増創設した人類研究部部長,1976年から1982年定年までは成城大学教授として人類学を講義した.1969年から日本学術会議会員,同第4部副部長,部長を歴任した.日本解剖学会名誉会員.日本人類学会と日本洞窟学会の会長を務めた.このように人類学の研究教育を進めるのみならず,そのための環境や組織などの運営や充実にも尽力している.紫綬褒章と勲2等瑞宝章を受章した.

 解剖学教室に入り骨格人類学を志したのは,日本人初の解剖学講義者小金井良精の教えにあり彼が師にあたる,と鈴木は語っていた.小金井は鈴木の学生時代にはすでに退職し名誉教授であったが,解剖学教室の一角で発掘古人骨を自ら洗い復元し計測して研究を進めていた,という.学術的指導ばかりでなくその研究姿勢をも学んだのであろう.鈴木は旧制7年制東京高等学校在学中から考古学班を率いて遺跡を探索するなど考古学や古人類に興味を持っていた,とのことだ.

 31歳の若さで東大理学部人類学教室の主任へ移った事情を本人が語るのを筆者は聞いたことがない.欠員となっていた人類学教室主任に東北帝国大学解剖学教授長谷部言人が乞われて着任しさらに1939年に人類学科を創設したが,その定年退職時の後任には鈴木が講師として着任した(寺田 1975).

 坪井正五郎が1891年理科大学(のちの東京大学理学部・理学系研究科)に創設した人類学教室は長らく日本で唯一の人類学の大学講座であり,長谷部が人類学科を創設してもこれは変わらなかった(寺田 1975).人類学の広い研究教育分野を推進するため,講座内に多数分野の研究者を含むことが必要であり,伝統であった.考古学,民族学(文化人類学)などは独立して他学部講座で行われるようになったが,鈴木の主任時代にも先史学,年代学,生理人類学,生態人類学,生体機構学,遺伝人類学など次々と拡がる分野は人類学教室内にそれぞれ研究室が生まれて研究教育を進めていた.1968年に鈴木が2講座目を増設するまで教授1名の1講座が続き,この間の学生・院生は専門にかかわらず鈴木が指導したところがある.生理人類学を専門とする院生が論文原稿を見てもらった時,真っ赤に添削されて返ってきてあとは考えなさいと言われた,とも聞く.

 鈴木は自身で発掘した骨格の研究により,縄文時代から近代にいたるまでの日本列島住民の骨格特に頭骨の時代変化を実証的に明らかにした(鈴木 1963).なかでもそれまで集団の違いの指標とも考えられていた頭長幅示数(頭蓋骨最大横径の最大前後径に対する示数)が容易に時代変化し,中世鎌倉時代に極小(長頭)になることを初めて発見した.鈴木は日本列島における人類集団の地域差を考慮して,比較集団を南関東地方中心に統一し地域の混同を避けた.その上で見られるこれら時代変化は,移住や交雑よりは遺伝的同一系統での生活状態の変化によるところが大きい,と考えた.このことは明治以降急激な近代化が進む中での大きな身体変化でも示されている,とした.縄文時代人と弥生時代人の間に骨格上の違いがあることを認めたが,これもこの間の(狩猟採集生活から農耕定住生活への)大きな生活・環境変化が要因,と考えた.

 鈴木は環境により骨格が変わることを示す研究も行っている.一つは東大で総合研究として行われていた双生児研究班に参加した頭形の研究である.頭長幅示数は遺伝子が同じ一卵性双生児間でも差をもつことが示された(鈴木,江原1956).現在ではエピジェネティックスにより同一遺伝子個体間でも各個体の環境要因により遺伝子発現が変わる,と分かってきている.また,江戸時代最高権力者の将軍家一族の墓地改葬に際しての調査で,彼らの形質は江戸庶民とはかけ離れ,むしろ現代的,さらには超現代的である,と見た.これを貴族形質と名付け,京都皇族公家出身の将軍家正妻や大名家などにも見られることを示した.たとえば顔が面長で横幅が狭く,とくに顎が狭いことや,鼻筋が高いこと,歯の咬耗減少などがある.これらは彼らの特殊な生活とくに柔らか物を食べていた咀嚼力低下が関係した,とする新しい知見を示した(鈴木尚他,1967).この考えと用語は広く用いられている.

 縄文時代より古い人骨を求めて,鈴木は更新世の化石人骨の調査を進め,多数の人骨を発表している.浜北人,港川人などの報告を行い,日本列島最古の人類集団を実証的に論じた.さらにこれらを遡る人類集団を求めて海外へ目を向け,西アジア地域で4度にわたり学術調査団を率いて古人類を追求した.この調査団は人類・先史学のみならず地質・古生物・地理学の研究者も結集した総合的なものであった(木村2019).なかでもイスラエル国アムッド洞窟遺跡でのネアンデルタール人全身骨格発見は国際的に高く評価され,その報告(Suzuki, Takai 1970)は常に引用され続けている.

 鈴木の主張は多数の自身発掘人骨に基づく実証的・数量的なものであり,それまで一部にあったような少数例からの推定や他者の資料を集めた結論などとは異なる新しい地平を切り開いた.しかし,発掘人骨による仮説は新しい発掘資料により覆されることがある.鈴木の日本列島人時代変化説に対しても反論が出されている.なかでも九州大学解剖学教室の金関丈夫は,自身が発掘した北九州・山口地区の多数の弥生時代人骨の研究から,縄文人と形質の異なる弥生人が朝鮮半島など大陸から多数渡来して定住しており南関東地方の結果を日本列島全体に当てはめるのは疑問である,と主張した(金関 1976).鈴木が地域を限定した関東では土壌の関係で弥生人骨の残存が悪くその調査例数は少ない.鈴木は渡来人の数は列島全体人口に比べ少ないだろうから影響も少ない,と主張したが(鈴木 1963),この時期の渡来人の大きな影響を否定するのは難しいであろう.ただし,金関の主張は北九州・山口地区以外の地域の自身以外の資料を含んだものにも寄っている.歴史時代の頭長幅示数時代変化については,北九州地方に限定した資料においても鈴木報告と同様に中世における長頭への極小が見られている(中橋 1987).埴原和郎は,日本列島に広く分布していた縄文人へ対し,渡来人の影響が本州から九州までの範囲では強く,北海道以北のアイヌと沖縄のグループでは弱い結果縄文人の形質を強く残している,という二重構造モデルを提唱した(Hanihara 1991).アイヌと沖縄の人たちが,縄文人に似ているか,また相互に似ているか,については議論が続いている.しかし現在では仮説としての二重構造モデルを中心として,この問題の検討が進められている.

 アムッド人報告当時のネアンデルタール人報告例は少なかったが,その後の発掘・研究の発展は大きく,鈴木らの論文内容には今では疑義の点もある.たとえば鈴木らのアムッド遺跡発掘では,当時の技術水準から年代測定は不成功に終わり,生活の場の利用法や資源収集の方策研究などには不十分なところが多かった.これらは30年後に同じ遺跡を再発掘したイスラエル隊によって新たに解明されてきている.しかし,彼らが再発掘できたのは,鈴木らが研究発想,方法論,技術などの発展する後世のために三分の二以上の堆積物を積極的に残し,発掘過程や層序を明確にして記録したからである(木村 2019).発掘とは破壊を伴うので,科学的検証のためにこのような配慮がなされたのであった.

 大量の発掘人骨の洗浄には技術員や学生も当たったが,頭骨の復元・計測・研究は主に鈴木が自身で行った.鈴木らが1966年に創立した東京大学総合研究資料館(のち博物館)の建物が構内にできるまでは,人類学教室内には先史学や民族学を含む創設以来の収集資料と共に鈴木の集めた人骨資料が大量に保管されていた.教授室内一面のガラス戸棚にも発掘頭骨が並び,室前の廊下には復元中の頭骨が置かれていた.少しでも時間があれば鈴木はそこに出て研究に勤しんでいた.

 鈴木の主張の中には上記のように批判されたものも含まれるが,その実証的研究報告は今なお意義を持ち続けている.

【引用文献】

  1. Hanihara K (1991) Dual structure model for the population history of the Japanese. Japan Review, 2: 1–33.
  2. 金関丈夫(1976)日本民族の起源.法政大学出版会,東京,pp. 597.
  3. 木村賛(2006)鈴木尚先生を偲ぶ.Anthropological Science (Japanese Series),114: 1–3.
  4. 木村賛(2019)西アジア調査団によるアムッド洞窟遺跡の発掘.Anthropological Science (Japanese Series).127: 81–94.
  5. 中橋孝博(1987)福岡市天福寺出土の江戸時代頭骨.人類学雑誌,95(1): 89-106.
  6. 鈴木尚(1963)日本人の骨.岩波新書,東京,pp.223.
  7. 鈴木尚,江原昭善(1956)双生児の生体研究.内村祐之編,双生児の研究第I 集.日本学術振興会,東京,p.50-77.
  8. Suzuki H, Takai F (Eds) (1970) The Amud Man and His Cave Site. Univ. Tokyo, Tokyo, pp. 439, Pls. 64.
  9. 鈴木尚,矢島恭介,山辺知行編(1967)増上寺徳川将軍墓とその遺品.東京大学出版会,東京,pp. 438, Pls. 142.
  10. 鈴木尚先生傘寿記念会編(1992)鈴木尚骨格人類学論文集.てらぺいあ,東京,pp. 859.
  11. 寺田和夫(1975)日本の人類学.思索社,東京,pp. 266.

(このページの公開日:2024年4月9日)

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