人生の達人:藤田尚男

石村 和敬
徳島大学名誉教授

解剖学雑誌98巻pp.33~34 (2023)(許可を得て転載)
石村和敬

藤田尚男先生は,解剖学者の枠を超えて,人生を生き生きと楽しみ,また周囲の人達にも様々な影響を与えた人生の達人と呼ぶべき人である.いくつかのエピソードを交えながら,その人となりを偲んでみたい.以下,敬称を略すことをお許しいただきたい.

1)略歴

1928年(昭和3年)5月18日 京都府福知山市生まれ.
1953年(昭和28年)3月   京都府立医科大学卒業
1954年(昭和29年)7月   京都府立医科大学助手(第1解剖)
1957年(昭和32年)9月   同上 講師(第2解剖)
1962年(昭和37年)7月   同上 助教授(第2解剖)
1965年(昭和40年)4月   広島大学医学部教授
1980年(昭和55年)5月   大阪大学医学部教授
1992年(平成4年)3月31日 同上 定年退官
2014年(平成26年)8月27日 大腸がんのために逝去.享年87歳.

2)解剖学への道

 藤田は,本科4年生の時に医学部の教授らと京都の北山にハイキングに出かけたが,その折りの解剖学の野田秀俊教授との会話が進路を決める一因になったと思われる.野田は,藤田の「どんな本を読んでおられますか.」の問いに「アンナ・カレーニナ」と答えたと言う.文学好きでヘルマン・ヘッセやゲーテ,トーマス・マンなどを愛読していた藤田が野田に好感を持ったことは容易に想像できる.

 教授になってから,藤田はこれと思った学生に「臨床は誰でもできる.しかし,基礎研究は能力がないとできない.君,解剖学をやれ.」とよく言った.藤田は「君には能力がある」とは一言も言っていないのだが,何人かの学生はその気になった.藤田の巧みな説得術である.それはともかく,この言葉の根底には,基礎研究に挑戦して自分の力を試してみたいという思いと「できる」という自信があったに違いない.

3)研究

 京都府立医科大学の助手に採用された時に,同じ教室の先輩に佐野豊がいた関係で神経分泌の研究に取り組んだ.また,1956年から大阪市立大学の藤原忠講師の研究室に通い,わが国ではまだ始まったばかりの電子顕微鏡研究を開始した.内分泌腺を主な研究対象に定めたのもこの頃である.1959年から翌年にかけて米国ミネソタ大学のJ.F. Hartmann教授の研究室に留学して電子顕微鏡研究に磨きをかけた.帰国後2年ほどで助教授に昇任した.日本人の論文が国際雑誌に掲載されるのは稀だったこの当時に,Z. Zellforsch. や J Cell Biol. に藤田の甲状腺や副腎の微細構造の論文が載っていることは特筆に値する.業績が評価され,藤田は1965年4月に広島大学の教授に就任した.36歳10ヶ月の若さであった.

 広島大学では,電子顕微鏡を武器とし,組織化学,オートラジオグラフィー,フリーズレプリカなどの諸方法を用いて,主として内分泌腺の分泌機構の形態学的解析に注力した.1974年には,群馬大学の黒住一昌との共著による電子顕微鏡図譜“Functional Morphology of Endocrine Glands”(医学書院)を発表した.また,藤田自身は甲状腺に主眼をおき,その成果を“Fine structure of thyroid gland”と題してInt. Rev. Cytol.(vol. 40, 1975)に発表した.藤田の元には学内外の多くの研究者が指導を受けに来たが,藤田はこの人達の出身教室に合わせてテーマを考えるという幅の広さを持ち合わせていた.このため,研究対象は松果体,脳下垂体後葉,ランゲルハンス島,卵巣,消化管,皮膚,食物と多岐にわたることとなったが,どれも質の高い論文に結実した.

 藤田は1980年5月に大阪大学に異動した.大阪大学からの強い要請に応じたものである.大阪大学では,これまでの技法に加え免疫組織化学法なども用いて,各種腺細胞の分泌現象の解析を行ったが,これ以外にも細胞の極性の研究,線維芽細胞の異物摂取,胃粘膜上皮細胞の更新メカニズム,腎臓の間質細胞の機能など,対象は多岐にわたった.甲状腺については,第2報として“Functional morphology of thethyroid”をInt. Rev. Cytol.(vol.113, 1988)に発表した.

 藤田は研究の進め方として3つのアプローチを教室員に語っていた.それは,(1)よく観察する,(2)由来をたどる,(3)ゆすってみる,である.(1)は説明不要であろう.(2)は個体発生的,系統発生的に対象を見るということであり,(3)は様々な実験条件下での変化の解析ということである.実際,藤田の甲状腺の研究もこの通りに行われていた.甲状腺の個体発生については鶏胚を用いた.系統発生にはホヤやナメクジウオまで遡って研究した.実験的には実に様々な研究を行った.研究を進めるための新しい技術,試薬などの導入には常に積極的だった.甲状腺はなぜ濾胞構造をとるのか,濾胞上皮細胞の極性を決めるのは何かなど,テーマは尽きなかった.既成概念にとらわれることがなく,発想は柔軟で新奇な説でも頭から否定することはなかった.ただ,藤田恒夫のパラニューロン説からは距離をおいた.

4)教育

 藤田は自らも語っている通り,常に全力で授業をした.授業に遅刻したことはなく,延長授業もしなかった.出張などの時は他の授業と代わってもらい,休講にすることがなかった.授業内容はすべて頭の中に整然と入っていたと思われ,メモなどを一切見ることなく進められる明解で迫力のある授業に学生達は圧倒された.

 藤田は都合がつく限り,頼まれた特別講義を引き受けた.藤田の講義を聞いた学生は全国に数多く,しかも講義を受けたことがきっかけで解剖学に進んだ者もいる.

 藤田の教育への貢献のもう一つは,何と言っても藤田恒夫との共著による「標準組織学」(医学書院)の出版であろう.これの「総論」は1975年に,「各論」は翌1976年に出版された.これらの第1版の序文を読むと,二人の熱意が強く迫ってくる.二人は「標準組織学」の改訂も怠らず,藤田の定年退官の1992年時点で第3版までを出している.

5)絵画,医学史,相撲,野球

 藤田は趣味の人でもあった.広島大学時代に絵画を始め,東光会会友として毎年出展した.出展作品では実験室を描くのを常とした.これは絵を見てすぐに誰の作品かわかるようにという,彼の作戦だったらしい.風景画もよく描き,伊吹山や富士山,米国ワシントン州のレーニア山などのスケッチが残されている.

 藤田は医学の歴史にも詳しかった.広島大学では医学資料館の設立に尽力した.設立当初の展示物の解説は,ほとんど藤田が作成した.また,著作にルネサンス期の絵画と人体解剖の発展を対比させた「人体解剖のルネサンス」(平凡社,1989年)がある.

 藤田の相撲好きはよく知られていた.大学時代には一時相撲部にも入っていたらしい.相撲が好きになったのは9歳の時だと,退官記念エッセイ集「解剖学の周辺」にある.いかに好きだったかは,当時の相撲の番付や力士の勝敗などを覚えていて教室員によく語って聞かせたことからも窺える.「野球は近代的,相撲は封建的と考える人もあるが,相撲にはどの力士にも平等に実力を試す機会が与えられている点で民主的な面がある」などとエッセイの中で語っている.藤田の考え方を示す一例である.小鉄という,かつての名呼び出しの物まねも上手だった.

 藤田は野球も好きだった.広島市民球場や甲子園球場,後楽園球場などに,教室員と一緒に野球観戦に行った.藤田自身は野球をしなかったが,ソフトボールをよくやった.ポジションはピッチャーで,山なりのスローボールを得意とした.広島大学にいた時も,大阪大学に移ってからもいろいろな教室の人達と試合をした.後にノーベル賞を受賞した本庶佑教授の教室の人とも試合をしたことがある.結果は2勝2敗だった.

 藤田は,定年前の1989年初頭に頸動脈海綿静脈洞瘻という稀な病気になった.症状は複視と頭蓋内雑音が主なものであった.不便な状況にも関わらず,変わらずに授業をこなし,海外へも出かけた.病気は1990年暮れに自然に治った.藤田はこの体験を「稀病と仲良く」(最新医学社,1997年)として出版した.どんなことでもポジティブに捉え,対処する藤田らしいところである.

 藤田は人を笑わせるのが好きだった.特別講義のために山口大学に行こうとして新幹線を乗り間違え,小倉まで行って引き返した失敗談なども面白おかしく語って教室員を笑わせた.謙虚を旨とし,自慢話はしなかった.アリストテレスの「人は生まれつき知ることが好きだ.」が好きで,フライブルク大学本館のアリストテレスの銅像とその台座にあるギリシャ語の銘文の写真を撮ってきて教室員に配ったほどだった.

6)学会活動,受賞など

 藤田は,日本解剖学会のほか,細胞生物学会,組織細胞化学会,電子顕微鏡学会,内分泌学会,臨床電子顕微鏡学会などでも評議員,理事を務めたが,学会長などはやりたがらなかった.ただ,日本学術審議会専門委員については意欲的だった.

 藤田は,日本電子顕微鏡学会の寺田賞(1969年),瀬藤賞(1976年),日本医師会医学賞(1988年)を受けている.

7)門下生

 藤田の元から多くの門下生が巣立った.ここでは解剖学関係者だけを列挙する:中井康光(昭和大学教授),高屋憲一(富山医科薬科大学教授),片岡勝子(広島大学教授.藤田の後任),石村和敬(徳島大学教授),川真田聖一(広島大学教授),栗原秀剛(藍野大学教授),辰巳治之(札幌医科大学教授),千田隆夫(藤田保健衛生大学教授,岐阜大学教授),今田正人(日本大学助教授),山下敬介(広島大学助教授).門下生の研究テーマはそれぞれ違ったものになったが,教育に対する藤田の姿勢はよく受け継がれた.

 藤田は定年退官に際して,優秀な教室員に恵まれたと業績集に書いているが,実態は藤田がそのように導いたのである.藤田にとって残念なことがあるとすれば,それは自分を超える弟子を持てなかったことであろう.

(このページの公開日:2024年4月9日)

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