好奇心の人 藤田恒夫

牛木 辰男
新潟大学

解剖学雑誌98巻pp.35~36 (2023)(許可を得て転載)
藤田恒夫

藤田恒夫の名前を知らない医学生や解剖学者は,ほとんどいないのではないだろうか.『解剖実習の手びき』(寺田春水と共著,南山堂1962),『骨学実習の手びき』(寺田春水と共著,南山堂1968),『標準組織学総論・各論』(藤田尚男と共著,医学書院1975–76)はいずれも肉眼解剖学と組織学の教科書のロングセラーであるし,保健・看護系向けの『入門人体解剖学』(単著,南江堂1972)も改訂を重ね続ける名著である.

略歴

 藤田は1929(昭和4)年12月29日に藤田恒太郎の長男として東京に生まれた.父恒太郎は当時,東京帝国大学医学部医学科を卒業したばかりだったが,1931年に東京高等歯科学校教授,1945年から東京大学教授になり,『歯の解剖学』(南山堂,1949),『生体観察』(南山堂,1950),『人体解剖学』(南江堂,1953)などの著者としても知られる.

 終戦直後の1946(昭和21)年に旧制第一高等学校に入学,その後,東京大学医学部に1950(昭和25)年に入学し,1954(昭和29)年に卒業,1年間のインターンの後に大学院に進学し,解剖学の小川鼎三教授に師事することになった.

 昭和32(1957)年に城所佐千子と結婚,昭和34(1959)年に大学院を修了し,膵島と神経の関係についての組織学的研究で医学博士の学位を取っている.その後,東京大学の助手を経て,昭和36(1961)年1月に岡山大学医学部助教授となり,大石 弘教授のもとで肉眼解剖の教育に従事しながら,膵島や肥満細胞の研究を行うことになる.一方で,フンボルト財団研究員として昭和36(1961)年7月から昭和38(1963)年11月まで西ドイツのキール大学に留学し,W.Bargmann 教授のもとで神経内分泌と内分泌系の組織学的研究を始める.新潟大学医学部教授としては,昭和43(1968)年11月に着任,以後27年間,平成7(1995)年3月の定年まで新潟大学医学部に奉職した.この間に,走査電子顕微鏡の医学生物応用とともに,胃腸膵内分泌細胞と脳腸ホルモンの研究,パラニューロン説の提唱,細胞死の研究などを行った.

 新潟大学の定年退官後は,平成7(1995)年から平成11(1999)年まで日本歯科大学新潟歯学部教授を務めたが,その後は個人事務所「オフィス藤田」を構え,最初は新潟,後に東京で季刊誌『ミクロスコピア』の編集長として活躍した.平成14(2012)年2月2日に脳梗塞で死去.葬儀は上野寛永寺で行われ,多数の弔問客が別れを惜しんだ.また,故人の遺志で新潟白菊会に献体された.

研究者として

 藤田の研究はダイナミックで多岐にわたるが,学位論文の膵島・神経複合体に始まりパラニューロンへと結実する神経・内分泌系の研究と,走査電子顕微鏡の医学生物学研究,の二つに大きく整理することができる.

 まず,藤田が教授として赴任した新潟大学の第三解剖学教室は,透過電子顕微鏡の研究室であり,それまでの膵島の研究は自然に消化管内分泌細胞の透過電顕観察へとつながっていった.小林 繁助手(当時)を始めとした若いメンバーの力を借りて,ヒトの消化管を中心とした内分泌細胞の形態による分類を進め,免疫組織化学を加えることで「胃腸膵内分泌系(GEP 内分泌系)」の提唱,さらにGEP 内分泌細胞がセンサー細胞であることの証明を行い,内分泌細胞と感覚細胞をひとまとめにした「パラニューロン」という概念提唱に至った.また,これらの研究の過程で,「Chromaffin cells and related cells」(1975),「Gastro-entero-pancreatic endocrine system」(1975),「Paraneurons, their features and functions」(1979),「Role of neurons and paraneurons」(1983),「Neurons and paraneurons」(1988)など,多くの国際シンポジウムを主催し,その成果は最終的に英文単行本『The Paraneurons』(共著,1987)として出版された.研究の詳細は,『腸は考える』(岩波新書,1991)というエッセイにもまとめられている.

 一方で,岡山大学時代の終わりに藤田は走査電子顕微鏡の医学生物学応用に興味を持ち始め,1965年頃に九州歯科大学の徳永純一助教授(細菌学)のもとで日本電子の走査電顕が日本で初めて導入されたと知ると,すぐに出向いて血球や精子の撮影をしている.その後,新潟に移り,鳥取大学の田中敬一教授と徳永・藤田の3人で「医学生物学のための走査電顕シンポジウム」の会(1972~1990)を始めた.こうして日本の走査電顕研究をけん引するとともに,肝臓や脾臓を始めとした走査電顕の微細構造解析を次々に発表した.また,これらの成果を「走査電子鏡による表面解剖アトラス」(日本語版1970,英語版1971),「SEM atlas of cells and tissues」(1981)として出版し,1980年には京都で田中敬一教授とともに走査電顕の国際シンポジウムを開催して,世界に強いインパクトを与えた.

教育者として

 新潟大学時代の藤田の組織学の講義は,黒板に見事な模型図を描きながら,ゆっくりと語りかけるスタイルで,学生に定評があった.また,学生の実習ノートには「グランプリ」「プチプリ」などの順位を付けて表彰をしたり,「肝臓を食べる会」と称した会を企画し,100名を超える学生たちと新潟の砂浜で,肝臓の観察を兼ねたバーベキューの会を毎年行ったりもした.研究室にはいつも藤田を慕う学生が出入りし,「春草会」という会を組織していた.この学生たちと,一緒にデッサン会やスケッチ旅行に出かけたり,朝早くからの外国語の輪読会(英,仏,独)を定年まで行った.

教科書の著者として

 藤田は多数の教科書を出版している.肉眼解剖学実習に関わるものでは,『解剖実習の手びき』と『骨学実習の手びき』が有名である.これらは寺田春水との共著であるが,図はすべて藤田が実際の解剖時のスケッチをもとに書き下ろしている.また,父藤田恒太郎の名著『人体解剖学』の改訂に情熱を注ぎ,その副産物として,看護学教育を念頭にした『入門人体解剖学』を出版している.

 一方で,岡山大学在職中に,広島大学の藤田尚男教授(当時)に誘われ,新しい組織学の本格的な教科書をつくることになり,10年ほどかけて,『標準組織学』(医学書院)の総論が1975年に,各論が1976年に上梓され,現在でも後継者らにより改訂が続けられている.

 なお,教科書ではないが,『細胞紳士録』(牛木辰男と共著,カラー版岩波新書,2004)は,体の中の57種の細胞の発見のエピソードや構造・機能などを一般的に紹介したもので,長く版を重ねた.

編集者として

 岡山大学名誉教授の関 正次が1950年に自力で創刊したArchivum histologicum japonicum をその遺言により委ねられ,1988年からはArchives of Histology and Cytology と名称変更し,2002年までの長きにわたり編集長を務めた.また,この編集を行う過程で,研究者の夢や想いを日本語で思う存分語らせるための雑誌を作りたいと思いつき,1984年に季刊『ミクロスコピア』(考古堂)を創刊した.藤田は26年続いたこの科学雑誌の編集に後年のほぼすべての心血を注ぎ,その間に「科学ジャーナリスト賞」を受賞している(2007).

エッセイストとして

 藤田の折々のエッセイをまとめた著書に『鍋の中の解剖学』(風人社,1995)と『続・鍋の中の解剖学』(風人社,2006)がある.最初の本は,新潟大学の定年退官の折に出版したもので,教授生活での多様な出来事が生き生きと描かれている.特に,研究室で,鮟鱇を鍋にして,あるいは実験で残ったウシガエルを料理して,教室員や学生と楽しい夜を過ごしたり,ミトコンドリアの味を知りたいと学生をそそのかしてスープをつくらせたりと,昔懐かしい研究室の日々が見えてくる.また,いずれの本も研究の喜びや,研究への情熱がにじみ出ており,日本ペンクラブ会員,エッセイストクラブ会員としての藤田の面目躍如たるものがある.

画家として

 東京大学に入学し医学部の美術クラブ「朱踏会」に入部したところ,当時は独立美術協会の樋口加六が指導をしており,油絵を習ったり大きな影響を受けたようである.卒業旅行には,一人で鹿児島まで無賃旅行に出かけて桜島の絵を描いているが,現在所在は不明である.このような絵に対する情熱は『解剖実習の手びき』の作図に生かされ,ドイツ留学時の思い出をまとめた佐千子夫人の著書『子供と一緒に見たドイツ』(新潮社,1965)のカットにも表れている.

 岡山時代にはいったん途切れた(潜めた?)絵への情熱が爆発するのは新潟大学の教授になってからで,学生たちとスケッチ旅行,ヌードデッサン会など,精力的な活動を行い,退職時には個展を開催し,画集を出している.その後も,しばしば大きなキャンバスを車に乗せて寸暇を惜しんで絵を描きに出かける姿があった.また,長年学生と続けたデッサン会の産物として『裸婦ポーズ集Let’s ダヴィンチ』(若林利重と共著,六曜社2002)を出版している.

 何事においても,子供のような好奇心を失わず,しかも徹底的に追及する人生だった.門下生には,三好萬佐行(福岡大),小林 繁(名古屋大),近藤尚武(東北大),楠元芳典(広島大),岩永敏彦(北海道大),牛木辰男(新潟大),岩永ひろみ(北海道大),金澤寛明(静岡県立大)などがいる.なお,藤田の没後に出版された『橄欖の花散りて』(藤田佐千子著,共同文化社 2018)では夫人の回想と,藤田の自伝的な遺稿により,その人となりを知ることができる.

(このページの公開日:2024年4月9日)

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