小川鼎三:経歴と業績

小林 靖
防衛医科大学校

解剖学雑誌97巻pp.70~71 (2022)(許可を得て転載)
小川鼎三

小川鼎三[ていぞう]先生は東京大学医学部教授,順天堂大学医学部教授,東京都神経科学総合研究所初代所長を歴任し,日本解剖学会理事長を12年間務め,日本学士院会員にも任命された解剖学と医史学の泰斗である.本稿はその神経解剖学の最後の弟子の一人である金光晟先生の記した経歴1)の主要部分を引用し,さらに若い世代に関心を持っていただけるエピソードをいくつか加えたものである.以下敬称は略す.経歴,業績の詳細は引用文献を参照していただきたい.

 小川鼎三は1901年(明治34年)4月14日大分県速見郡杵築町に井坂豊俊,ゑいの第6子,3男として生まれた.祖父は緒方洪庵の適塾で学んだ杵築藩医の井坂玄琳である.1904年に玄琳の兄小川含章の孫である静恵の養子となり祖父の実家の姓を継いだが,引き続き井坂家で育った.小川含章は儒学と蘭学を学び大分で私塾麗沢館を開いた人物である2)

 1914年大分県立杵築中学校に入学し,中学5年間首席を通した.漢文に秀でる一方,植物学に興味を持ち光合成の研究を志した.1919年第三高等学校理科甲類に入学.西田外彦(西田幾多郎の次男),小川芳樹(のち東大工学部教授,湯川秀樹の兄)らと親交を持つ.甲類は理工系であったが,2年次にヴントの実験心理学に触発され,脳生理学に関心を持って医学部を志す.

 1922年東京帝国大学医学部に入学し解剖学の西成甫教授,組織学の井上通夫教授,医化学の柿内三郎教授,臨床実習の入沢達吉教授,眼科学の石原忍教授などに強い印象を受けた.1926年同卒業,東北帝国大学の布施現之助教授の講座に助手として採用され脳解剖学の研究を始めた.布施はスイスのvon Monakow の下で研究を行った,当時の日本における神経解剖学の第一人者である.当初小川は将来脳生理学に転ずる希望を持っていたが,実物の観察を何よりも重視する布施の姿勢は小川の研究を終生貫くこととなり,布施も小川に全幅の信頼をおいていたと伝えられる.小川はのちの門下生に,1枚の切片を徹底的に観察することの重要性を強調した.

 1928年に東北帝国大学助教授となり,「水棲哺乳類の後索核の比較解剖学的研究」3)を発表した.この時期に,水棲動物と陸棲動物の比較が脳研究に有効であると着眼した.その後の樺太,千島への水棲動物脳の採集旅行を経て,小細胞性赤核とダルクシェヴィッツ核の異同に関心を持った.当時両神経核は独立した構造と考えられていたが,オットセイの小細胞性赤核が内側間質核に融合し,さらにダルクシェヴィッツ核に連なっていることから,これらを連続した構造と考えた.布施は変性法に懐疑的であり,直ちにこれを線維結合等で証明することはできなかったが,後年線維結合と機能を含めた研究を実現し,小川の神経解剖学における代表的な業績が形作られることになる.

 また,当時魚市場から研究室に届いた“マイルカ”に全く形態の異なる個体が見られたことをきっかけに,ハクジラ類の分類研究にも着手した.三陸沖のイルカを手始めに全国へ出張して調査を行い,日本近海のハクジラに19属27種を記載した.うち12種は国内初の記録であった4,5)

 1934年に「水棲哺乳動物の中枢神経系に関する知見補遺」の論文で東北帝国大学から医学博士の学位を授与された.1936年東京帝国大学医学部講師を併任,同年実業家堀越久三郎の寄付により東京帝国大学医学部附属脳研究室が発足し,第一部(解剖学,病理学,生理学,生化学)の主任となる.

 1937年にロックフェラー財団のフェローとして1年間米国ノースウエスタン大学神経学研究所のRanson 教授とイェール大学神経生理学のDusser de Barenne 教授の下に留学した.Ranson 研究室では赤核の研究を継続し,持ち帰ったクラーク式脳定位手術装置が帰国後の研究でも使用された.

 1939年東京帝国大学助教授に昇任し,解剖学第三講座主任と脳研究室第一部主任を兼ねた.同年ネコの赤核に関する研究を論文として発表した6).1944年に同教授に昇任.1945年西成甫の退官した第一講座の教授となる.

 戦後は1946年日本解剖学会理事長に就任し1958年まで務めた.1947年には,解体新書の前年(1773)に書かれた越爼弄筆[えっそろうひつ]の図が実地に解剖しないと描けない点に注目し,本書が天文学者としても知られる杵築藩の麻田剛立によって書かれたものであることを突き止めた7)

 1951年「錐体外路系に関する研究」に対して京都大学の平澤興教授とともに日本学士院賞が授与された.授賞審査要旨8)には小川の比較解剖学的な着想から伝導路解析,破壊実験による症状の検証までの幅広い検討と独創性が高く評価されている.同年「脳の解剖学」を出版9).本書は単に当時の神経解剖学の知見をまとめたものではなく,過去の研究の道筋や考え方を紹介し,未解明の問題を指摘して今後の研究の方向を示そうとしている点で,類書とは全く異なるものであった.また,途中のスペースに挿入された餘滴,第14講「鯨の脳について」,第15講「脳と神経の歴史」には小川の比較神経学や医学の歴史についての該博な知識と見方が綴られており,今日読み直しても示唆に富む内容である.

 1953年脳研究室が官制化され脳研究施設となり6部門に拡充され,小川は脳解剖学部門主任を併任.1958年に施設長を併任した.1959~60年に日本雪男学術探検隊隊長として多摩動物公園初代園長の林寿郎らとネパールのエベレスト山麓に赴いた.雪男の証拠は得られなかったが,帰路に行ったガンジス川のカワイルカ調査は成果を上げた10)

 小川の講義は誠実な人柄の滲み出る朴訥な口調で,これぞ学者という印象を与えたという11).小川は内科の冲中重雄,精神科の内村祐之(内村鑑三の長男,一高時代に野球で全国制覇を果たした投手)と並んで当時の学生から尊敬を集める教授であった.

 1960年日本医史学会理事長.1962年東京大学を定年退官.順天堂大学医学部に開設された医史学研究室の教授となる.同年東京大学名誉教授.1966年日本学士院会員.1969年順天堂大学客員教授.1972年勲二等瑞宝章を受章.東京都神経科学総合研究所初代所長に就任.1975年1月8日宮中講書始の儀で解体新書について進講.1983年12月尿毒症のため順天堂医院に入院.1984年4月29日同病院にて永眠.享年満83歳.従三位に叙せられた.

 小川鼎三は古典的な比較解剖学に立脚しつつ,当時最先端だった定位脳手術で動物実験を行い伝導路の追跡と機能解析を併用するなど,幅広い手法を駆使して科学的な命題を証明する柔軟な思考の持ち主であった.ドイツ留学がまだ多かった時代に,最新の技術を求めて米国のRanson 教授の下に渡ったのもその現れであろう.赤核の研究が一段落してからは,自ら解剖して鯨の心臓の神経支配を研究した.東京大学を定年退官後は順天堂大学で医学の歴史に関する研究をさらに進め,そこで少年期に培った漢文の素養や学生時代に磨いた外国語の知識が生かされた.新たな知識と技術を弛まず追求し,人生の各年代において最も適切な領域で手腕を発揮し成果を上げた姿勢は,現在も学ぶところがきわめて多い.

 小川は研究室での談話を好み,笑いも交えてさまざまな話題を語ったという.その一端が小川の講座を継いだ細川宏によって書き留められている12).小川はキノコの分類にも詳しく,休日に教室員を伴って近郊の山などを歩いてキノコを観察した.そうしたゆとりのある環境から多彩な人材が育った.小川の門下生は数多く,その一部しか紹介できないが,主な分野別にみると,神経系の研究では細川宏,中井準之助,吉村不二夫,草間敏夫,萬年甫,小島徳造,大谷克己,酒井恒,関泰志,金光晟らが挙げられる.細川は幅広い知識と綿密な研究で将来を期待されたが,胃癌のため44歳で惜しまれつつ亡くなった.細川の死後小川と中井は細川の遺稿詩集を編纂した13).その編者あとがきに記された細川に対する哀惜の念は胸を打つ.中井は培養細胞を用いた研究へと進み,後進を多数育てた.心臓の研究は淺見一羊,医史学は酒井シヅ,鯨類の研究は細川と神谷敏郎に受け継がれた.大江規玄は歯の発生の研究を,山田致知は肉眼解剖学の研究を進めた.東京藝術大学保健センター教授となり「胎児の世界」の著書で知られる三木成夫,同美術解剖学教授となった中尾喜保も小川門下である.脳研究室は臨床部門も一体となっており,当時の精神科,神経内科,脳神経外科には小川の薫陶を受けた臨床家が多く,追悼録に多くの寄稿がみられる14)

 筆者は小川先生と卒業年次が60年違い,学生時代に小川先生が亡くなったため,直接お会いする機会に恵まれなかった.ある日の夕方脳研の研究室へ切片の観察に行くと,日中小川先生が来訪されたことを先生たちが話しておられたことがあった.それが最後の脳研訪問であったことが惜しまれてならない.本稿は金光晟先生から引き継いだ小川先生の別刷や関連資料に多くを負っている.肖像写真は淺見一羊先生から,当時の学生の雰囲気を伝える文献11は平野寛先生から譲り受けた.今は亡き3名の先生に心より感謝申し上げる.

【参考文献】

  1. 金光晟.故小川鼎三名誉教授を偲ぶ:小川鼎三先生の略歴と主要業績.神経研究の進歩.1984; 28: 366–71.
  2. 小川鼎三.小川含章の小伝.社会教育資料.1966; 46:97–122.
  3. Ogawa T. Beiträge zur vergleichenden Anatomie der Hinterstrangkerne der Wassersäugetiere: Über den medianen unpaarigen Burdachschen Kern (Nucleus Brudachii medianus inpar) beim Seehunde (Phoca vitulina L.). Arbeiten aus dem anatom Inst der Univ zu Sendai. 1928; 13: 79–89.
  4. 小川鼎三.本邦の歯鯨に関する研究.植物及動物.1936; 4.
  5. 小川鼎三.本邦の歯鯨目録に加ふべき4属(抄).動物学雑誌.1936; 48: 175.
  6. Ogawa T. Experimentelle Untersuchungen über die mediale und zentrale Haubenbahn bei der Katze. Arch f Psych u Nervenk. 1939; 110: 365–444.
  7. 小川鼎三.「越爼弄筆」「造物余譚」解説.医学古典集3巻.東京:医歯薬出版;1958.
  8. 日本学士院.医学博士小川鼎三・医学博士平沢興の「錐体外路系に関する研究」に対する授賞審査要旨.1951.
  9. 小川鼎三.脳の解剖学.東京:南山堂;1951.
  10. 小川鼎三.鯨の話.東京:中央公論社;1973.
  11. 東京大学医学部医学科昭和三十四年卒業記念誌「三四郎会の五十年」2009.
  12. 細川宏.小川鼎三教授寸話集1~5.医学のあゆみ.1962; 41: 387–9, 432–4, 81–82, 521–4, 72–75.
  13. 細川宏.詩集 病者・花.東京:現代社;1977.
  14. 小川東洋編.小鼎追悼録1986.

(このページの公開日:2024年4月9日)

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