明治後期の解剖学教育―魯迅と藤野先生の周辺

坂井 建雄
順天堂大学医学部解剖学

出典:解剖学雑誌82巻pp.21~31 (2007)(許可を得て転載)

 要約:魯迅は仙台医学専門学校で1年半医学を学んだ後,文学に転じた.小説『藤野先生』の中で,藤野教授からノートの添削を受けた思い出を語っている.魯迅およびその時代の医学生たちのノートを分析して,当時の解剖学の授業の様子を明らかにすることができた.教師は授業中に多数の解剖図を,多色のチョークを用いて板書した.学生たちのノートには,授業中に筆録したものと,授業後に清書したものとがある.清書にあたっては解剖学書を手元に置いて図を模写した.参照した解剖学書として,Gegenbaur,Rauber,石川喜直のものを同定できた.魯迅は,入学後の2ヶ月間だけ解剖学のノートを清書し,それ以後のノートはすべて筆録であった.筆録のノートで藤野教授の講義分のみに朱筆の添削が見られた.
Key words:魯迅,医学史,解剖学教育,明治時代

はじめに

 魯迅(本名:周樹人,1881-1936)は,1904(明治37)年9月から仙台医学専門学校で医学を学んで,1年7ヶ月で退学し,医学の道を断念した.魯迅はその後,文学の道を選び,批判精神にとんだ著作を通して,近代中国の建設に大きな影響を与えた.

 魯迅の小説『藤野先生』は,仙台医学専門学校で医学を学んだ頃の思い出,とくに解剖学教授の藤野厳九郎によって解剖学のノートを添削された思い出を大切なものとして語る.『藤野先生』の中では,解剖学ノートは3冊の厚い本に装丁され,大切に保管していたが,引っ越しの際に紛失したと書かれている.しかし魯迅のノートは1951年に紹興の親戚の家で発見され,1956年に魯迅夫人の許広平女史から国家に寄贈された16).現在は北京の魯迅博物館に所蔵され,国家一級文物に指定されている.現存するノートは,魯迅が仙台医学専門学校時代に講義を書き記した複数のノートを合本・装丁したもので,全6冊からなり,魯迅医学筆記と呼ばれている.そのうちの3冊が解剖学のノートで,残りは組織学,生理学,有機化学,病理学の講義ノートである.

 東北大学経済学部の大村泉教授を中心とするプロジェクトチームでは,魯迅の東北大学留学100周年を記念し,北京の魯迅博物館と共同して,関係する資料の発掘や解読とともに,『魯迅と仙台』などの出版物の編纂27)やシンポジウムの開催などの事業を行っている.このプロジェクトのために,魯迅医学筆記のデジタル画像と複製本が,北京魯迅博物館から東北大学に提供されている.筆者はこれらの解剖学ノートを,おもに解剖学と医学史の見地から解析し,その結果を北京および仙台でのシンポジウムなどで報告し28,29),また「魯迅研究月刊」にて発表した30)

 魯迅の解剖学ノートの解読および詳細な解析は,筆者を含めたプロジェクトチームの手で現在進行中である.このプロジェクトの一部として,魯迅とほぼ同時期に仙台医学専門学校で学んだ学生3名のノートが発掘され,解析が進められている(表1).

表1

1.仙台医学専門学校の解剖学の授業

 仙台医学専門学校は,1888(明治21)年4月に第二高等中学校医学部として授業を開始し,1894(明治27)年6月から第二高等学校医学部となり,1901(明治34)年4月に分離独立して仙台医学専門学校となった33).藤野厳九郎先生はその頃,東京帝国大学医科大学で解剖学の研究を行っており,大澤岳太郎教授の紹介により同年10月に仙台に赴任した.当初は講師として,1904(明治37)年7月からは教授として,敷波重次郎教授とともに解剖学を担当した.
 魯迅が仙台医学専門学校に入学したのは,藤野先生が教授に昇任してすぐの1904(明治37)年9月である.魯迅は仙台における初めての中国人留学生であった.仙台医学専門学校は4年間の課程である.毎年100名強の学生が入学しているが,進級がきびしいために退学するものが多く,卒業試験を受験する者は50名前後になる.魯迅のように1年7ヶ月で退学するのも,けっして珍しいことではなかった.1年級では,解剖学,組織学,生理学,化学,物理学,ドイツ語,倫理学,体操の授業が行われ,そのうち解剖学は授業時間数の26.8%を占めており,組織学の6.4%,生理学の6.7%,有機化学の15.8%などと比べてきわめて比重の大きな科目であった.
 魯迅の仙台時代について,1974年から1976年にかけて,仙台における魯迅の記録を調べる会が当時の学生の存命者たちに聞き取り調査を行った.その調査をもとに,阿部兼也氏は当時の授業の様子を次のように紹介している.

 当時,仙台医専の基礎医学関係の授業には,今日でいう教科書は無く,生徒は先生の講義をすべてノートしなければならなかった.担当教員の敷波・藤野両先生が変わり者で教科書を使わなかったのではなく,入手が困難だし,高価だしで,非現実的だった.そんな条件のもとでは,教員が手ずから黒板に図を描き,生徒がノートにそれを書き写すのは,まさに必須の手法であって,それなしには授業にならない.敷波,藤野両先生とも,解剖図を画くのが巧みで,筋肉や血管を色チョークで描き分け,生徒にノートさせた.(阿部兼也『魯迅の仙台時代―魯迅の日本留学の研究』1)から)

 魯迅とその周辺の年代で,1900(明治33)年から1904(明治37)年にかけて解剖学の授業を受けた学生たちのノートが残っている.このうち柳澤廣三郎と斎藤龍祥は敷波教授の授業を受け,魯迅と小野豊三郎は敷波と藤野両教授の授業を受けている.解剖学の授業を両教授がどのように分担したかは,大学に残された時間割から読み取ることはできないが,魯迅医学筆記では,ノートの区分ごとに表題と担当教授の名前が記されており,敷波教授が解剖学総論,骨学,靱帯学,筋学,感覚器学,内臓学を担当し,藤野教授が筋学,血管学,神経学を担当していたことが分かる.

2.魯迅の時代の学生たちの解剖学ノート

 魯迅医学筆記は,北京の魯迅博物館に所蔵されており,国家一級文物に指定されている.21×16cmのクリーム色上質紙の横罫(一部は無地)ノート用紙を装丁したもので,全6冊に分かれている.各冊の厚さはおおむね300頁程度で,第1・2・4冊に敷波教授と藤野教授の解剖学の講義ノートが含まれている(表2).第2冊の血管学,神経学,局所解剖学のノートには,藤野教授の独特の癖のある字で,多数の添削がおもに朱筆で書き込まれている.血管学と神経学は第1年級の講義内容であるが,局所解剖学は第2年級の講義である.解剖学の第1冊と第4冊のノート,および解剖学以外の第3・5・6冊のノートに,若干の訂正や書き込みがあるが,藤野教授の字による添削と確認できるものはない.泉彪之助氏は,1993年8月と1994年7月に魯迅博物館を訪ね,魯迅医学筆記を調査してその概要を報告している15).魯迅医学筆記の複製およびデジタル画像が,2005年9月の北京での国際シンポジウムを記念して東北大学に寄贈されており,今回の研究では東北大学から提供を受けた画像データを用いた.

表2

 小野豊三郎の解剖学ノートは,子息の小野士郎氏が所蔵していたが,仙台における魯迅の記録を調べる会の手を経て,現在では東北大学史料館に所蔵されている.ノートは2冊あり,いずれも縦21.5cm,横15cmのクリーム色上質紙の横罫ノート用紙を,黒い厚紙を表紙にして紐で綴じ,その表紙中央に白い紙を貼り,1冊には「藤野権九郎 記 骨格圖附編 全」(骨格図ノートと略記),また1冊には「藤野権九郎口述筋肉學 全」(筋肉学ノートと略記)と墨書されている.骨格図ノートは,29枚の紙葉を含み,内容は,最初の5頁に解剖学総論の図を描き,それに続いて骨格図が描かれ,上肢,下肢,体幹,頭部の4部に分かれている.筋肉学ノートは,37枚の紙葉を含み,内容は,通論に始まり,各論となって上肢,下肢,背部,頭頸部,胸腹部,鼡径管に分かれている.小野豊三郎の解剖学ノートの概要については,浦山が2005年の日本医史学会総会にて報告している37)
 斎藤龍祥のノートは,東北大学附属図書館医学部分館に保管されている.解剖学総論,骨学,靱帯学,筋学,脈管学,神経学,組織学,有機化学などを含む4冊をはじめ多数のノートからなる.大村泉教授らにより撮影され,ノートの解析が行われている.斎藤龍祥は,1901年(明治34年)に仙台医学専門学校に入学しており,藤野厳九郎が着任する以前の,敷波教授による講義のノートである.
 柳澤廣三郎のノートは,東北大学史料館に保管されている.「解剖学 筋骨 壱」と題された1冊であり,大村泉教授らにより撮影され,解析が行われている.柳澤廣三郎は,仙台医学専門学校が生まれる前年の1900年(明治33年)に,第二高等学校医学部に入学し,敷波の解剖学講義を受けている.
 これら4名のノートのうち,魯迅と小野のノートが最もよく解析が進んでいるが,魯迅のノートについては,医学を断念して文学に転身する契機,小説『藤野先生』の記述とも絡めて慎重な調査が必要となるので,今回はとくに小野ノートの調査結果を中心に,他のノートの概要もあわせて報告する.

3.小野ノートの解剖図

3-1.小野ノートの解剖図の特徴

 これまで魯迅の時代の学生たちのノートの解剖図は,教師が黒板に板書したものから模写されたものだと思われていた.しかし医学を学び始めたばかりの初心者が,複雑な解剖図を正しく精確に描くのはきわめて困難である.既存の図を模写しても,往々にして変形が加わったり,原図の癖が誇張されて描かれたりする.有能な教師が細心の注意を払って図を板書したとしても,毎回ごとに多少の変形が生じ,それを学生が限られた授業時間の中で模写したとすれば,図の変形はさらに甚だしくなるに違いない.

図1 小野の骨格図ノート17頁左,蝶形骨を描いている.上は上面(①),中は後面(②),下は前面(③)を示す.

 小野のノートの骨格図と筋肉図には,きわめて精緻に描かれたものが多い.骨格図と筋肉図の精緻なものは,板書を模写したものとはとても考えられないほどに精緻なもので,時間に余裕のある状態で,何らかの図の資料をみながら模写したとすべきできある,精緻な骨格図の実例として,蝶形骨の図を示す(図1).
 小野ノートでは,蝶形骨の上面(上),後面(中),前面(下)が陰影を加えて描かれ,黒字で部分の名称を指し示している.この図は,石川喜直の『人體解剖學』の図に酷似している,小野の図は,陰影も含めて詳細に描かれていることが多く,融通の利かないきまじめさを感じさせる.

3-2.出典となる資料の候補

 魯迅と小野豊三郎が仙台で医学を学んでいた頃には,今田束と石川喜直の解剖学書が愛用されていた.今田束は帝国大学醫科大學(現在の東京大学医学部)の助教授であり,その『實用解剖學』全3巻は,1887(明治20)年に初版が出されてから版を重ね,1905(明治38)年に第15版が発行されている.石川喜直は金澤醫學專門學校の教授で,その『人體解剖學』全3巻は1903-1904(明治36-37)年に初版が出され,一部彩色の詳細な解剖図で人気を博した.石川の『人體解剖學』(第2・3・5巻)は,解剖ノートとともに小野の遺品として東北大学史料館に保管されており,小野はこの解剖書をよく利用したと思われる.しかし巻末の書き込み「明治三十八年八月廿九日求之 小野豊三郎」によれば,これを購入したのは1年次の授業の終了後である.
 この時期には,外国の解剖学書としてはドイツ語のものがよく用いられており,今田と石川の解剖学書も,ドイツ語の解剖学書を参考にして書かれている.今田と石川の解剖学書の凡例には,以下のように記されている.

一 引證書目ハ盡ク枚挙スルニ遑アラズト雖モ主トシテヘーンレヒルトルクラウゼホフマンマイエルボックホルスタインゲーヂンボールバンセオルト諸氏ノ解剖及組織書に據ル(今田束『實用解剖學』13)から)

リヒテルヘンレーラウベルパンシュトルト等の諸書に就き,其粹を抜き其長を酌み,專ら初學者をして一定の期間中に解剖學の全貌を窺知せしむるの方針を執りて編成せるなり.(石川喜直『人體解剖學』14)から)

 藤野の蔵書の中には,Gegenbaurの解剖学書と,Schäfer and ThaneによるQuain解剖学とがあり,あわら市の藤野厳九郎記念館に残されている.また1943年(昭和18年)に全国の医学部の解剖学関係の蔵書を調査した『解剖學圖書目録』19)には,この頃以前の解剖学書として仙台に,Broesike,Gegenbaur,Heitzmann,Henle,Hyrtl,Krause,Luschka,Peter,Quain,Sappeyのものなどが所蔵されていたと記されている.日本語によるもののほかに,ドイツ語,フランス語,英語の解剖学書も仙台医学専門学校で参考にされていたことが伺える.今回は,この時代に使われたと考えられる日本語および外国語の解剖学書を可能な限り収拾して調査した(表3).

表3 3-3.小野の骨格図の出典
図2 小野の骨格図ノート6頁左,前腕の骨を示す8つの図が描かれている.中央に橈骨と尺骨を組み合わせた前面(①)と後面(②)の図,左側に尺骨上部の前面(③),外側面(④)および橈骨と尺骨上部の前面(⑤),下の中央に橈骨と尺骨の下端(⑥)を描いている.右上に橈骨下部(⑦),中央やや下に橈骨下端の断面(⑧)が描かれている.

 小野の骨格図ノートには,4頁右以後に116点の骨格図が描かれている.1頁に同じテーマの複数の図が描かれ,1頁あたりの平均は4.5点になる.図はすべて白黒である.
 小野の骨格図ノート6頁左は,前腕の骨を取り上げている(図2).この頁には,中央に「前膊骨ノ図」と題する2点1組の図があり,橈骨と尺骨を組み合わせた状態を前面と後面から描いている(①,②).その左手に3つの図が縦に並び,上から順に尺骨上端の前面(③),尺骨上端の外側面(④),橈骨と尺骨の上端の前面(⑤)を描いている.頁中央の下端には,橈骨と尺骨の下端の図がある(⑥).ここまでが骨の形状を精緻に描いた解剖図であり,この他にやや簡略な図が2つある.右上のものは橈骨下端の前面(⑦),中央の図の直下のものは橈骨下端の断面(⑧)を描いている.

図3 明治後期の解剖学書に見られる前腕骨の図.a)今田(1905),b)石川(1903),c)Bock(1850),d)Gegenbaur(1892),e)Heitzmann(1890),f)Henle(1855-1871),g)Hollstein(1873),h)Pansch(1886),i)Rauber(1892),j)Toldt(1907),k)Gray(1858),l)Quain and Wilson(1856),m)Schäfer and Thana(1894-1899),n)Poirier and Charpy(1892-1904),o)Sappey(1876-1879),p)Testut(1899-1901).出典については表3を参照.

 ①と②に対応する図を,調査対象となる解剖学書の中に探し求める.表3に掲げた解剖学書のうち,本文のみで解剖図がないBock(1842-1843)2),Hyrtl(1847,1863)11-12),Krause(1843)17),個別の骨の解剖図のないBroesike(1912)4)とRichter(1896)26),局所解剖の解剖図のみで骨格の図のないHenke(1888)8)には,前腕の骨の解剖図が含まれない.これら以外の解剖学書に含まれる前腕の橈骨と尺骨の図と比較する(図3).
 小野ノートでは橈骨と尺骨を組み合わせて,前面と後面の両方を描いている.橈骨と尺骨を分けて描いているBock(1850)3),Heitzmann(1890)7),Meyer(1873)18),Rauber(1892)25),Toldt(1907)36),Gray(1858)6)は,出典として除外できる.橈骨と尺骨を組み合わせていても前面もしくは側面だけを描いている今田(1905)13),石川(1903)14),Henle(1855-1871)9),Hollstein(1873)10),Quain and Wilson(1856)24),Schäfer and Thane(1894-1899)32),Sappey(1876-79)31)も除外される.前面と後面を描いているもののうち,Pansch(1886)20)は図が簡略なので除外され,最終的に小野ノートの図と比較すると,尺骨の彎曲の特徴などの骨の形態的特微から,Poirier(1892-1904)21)でもTestut(1899-1901)35)でもなく,Gegenbaur(1892)5)が出典となったことは明白である.さらに陰影など図の描き方の詳細がきわめてよく類似することから,小野がGegenbaurの解剖学書を手元に置き,かなり時間をかけて直接に模写したものと考えられる.
 小野の骨格図ノートの③~⑥の図については,石川の解剖学書のものときわめてよく似ており,ここから直接に模写したと考えられる.小野の骨格図ノートの⑦と⑧の図は,かなり簡略に描かれており,また対応する図も解剖学書の中に見あたらない.藤野による板書をそのまま模写したものと考えられる.小野の骨格図ノート6頁左に描かれた7点の解剖図について,推定される出典をまとめると,Gegenbaurの解剖学書5)からのもの1点(①,②),石川の解剖学書14)からのもの4点(③~⑥),藤野の板書によるもの2点(⑦,⑧)となる.
 小野の骨格図ノートに含まれる骨格図は116点ある,上肢・下肢・体幹・頭蓋に分けて出典の集計結果を示す(表4).図の出典は,石川の解剖学書からのものが80点で大多数を占め,Gegenbaurの解剖学書のものも一部含まれていた.緻密に描かれていて,何らかの資料を模写したと考えられるが,出典を特定できないものが11点あった.寛骨,大腿骨,距骨と踵骨,第1・第2頸椎の図である.図の描き方が簡略で,板書を書き写したと考えられるものは6点であった.

表4 3-4.小野の筋肉図の出典
図4 小野の筋肉学ノート14頁左,骨盤前面と後面の筋を示す4つの図が描かれている.左上に寛骨前面の筋(①),右上に殿部浅層の筋(②),右下に同深層の筋(③),左下に骨盤壁の内側面を正中で折半した骨盤で示す(④).①~③は彩色,④は白黒.
図5 小野の筋肉学ノート14頁左の筋肉図(図4)の出典となった解剖図.Gegenbaurの解剖学書からの図(a,b,c)は図4の①,②,③に対応し,石川の解剖学書の図(d)は④に対応する.

 小野の筋肉学ノートには,講義のテキストの間に72点の解剖図が描かれている,解剖図のために1頁のスペースをあけたり,半頁のスペースをあけたりしており,図の配置を考えながら講義を筆録したものと考えられる.図のうち62点は色鉛筆を使って彩色が行われており,4点には若干の着色が行われ,白黒の図は6点である.
 小野の筋肉学ノートの4頁左には,骨盤前面と後面の筋の解剖図4点が描かれている(図4).彩色された3点の図(左上①,右上②,右下③)はGegenbaurの解剖学書5)からのもので,左下の白黒の図(④)は石川の解剖学書14)からのものである.この出典となったGegenbaurと石川の解剖学書の解剖図を示す(図5).
 小野の筋肉学ノートに含まれる解剖図は72点あり,同様に出典の集計結果を示す(表5).筋肉学の講義では骨学と多少構成が変わっており,上肢・下肢・背部・頭頸部・胸腹部に分けて示す.図の出典は,Gegenbaurの解剖学書からのものが43点で大多数を占め,石川の解剖学書からのものも15点とかなり多い,緻密に描かれて,解剖学書の図を模写したと思われるが,出典不明のものは,脊柱起立筋内側部と咀嚼筋の前頭断の図の2点であった.板書によると考えられるものは12点あったが,そのうち肋間筋の図は,Rauberの解剖学書25)の図と図柄が似ていた.

表5

4.斎藤ノートの解剖図

 斎藤ノートの骨学の部分には,いくつかの大きな特徴がある.第一に,骨学講義と骨格図が,同一のノートに記されていること,第二に,講義の内容が,体幹,頭蓋,上肢,下肢の順になっており,上肢と下肢を先行させた1904年の魯迅と小野のノートと異なっている.この点について,藤野が1901年の10月に仙台医学専門学校に講師として着任し(その後,教授に昇任),斎藤が講義を受けた頃は,敷波が解剖学の講義を担当しており,その後1904年には敷波教授と分担して骨学と筋学を同時に教えるようになったという事情が関係している.1901年入学の斎藤ノートと1904年入学の魯迅・小野ノートとで,骨学と筋学の配列が異なるのは,骨学と筋学を異なる教授が並行して教えながら,骨学と筋学で同じ部位を同時期に教えられるようにするための配慮ではないかと,推測される.

図6 斎藤ノートの骨学ノート24-25頁,左側では腰椎,右側では仙骨の図が描かれている.図の他に図のネームと講義のテキストが記されている.

 斎藤ノートの骨格図も,きわめて精緻に描かれており,明らかに解剖学書を横に置いて模写したものと考えられる(図6).しかし図の出典は,小野豊三郎が用いたGegenbaurのものでも,石川喜直のものでもない.小野ノートの場合と同様に,19世紀末から20世紀初頭の解剖学書の図と比較すると,Rauberの解剖学書25)の図ときわめてよく似ていた.代表例として仙骨の図を示す.斎藤ノートの骨格図のほとんどは,Rauberの解剖学書からのものであり,Gegenbaur,石川喜直などの解剖学書と類似するものは見つからなかった.

 Rauberの解剖学書は,もともとイギリスのQuain解剖学がもとになっている.Quain解剖学の初版22)は1828年に出され,少なくとも第3版23)まで解剖図のない1巻本の解剖学書である.1856年の第6版34)ではSharpeyにより改訂されて解剖図のある3巻本になり,1891年の第10版32)ではSchäferが大幅に増補改訂をして,3巻9冊の解剖学書になり,大幅に図を入れ替えている.Quain解剖学の最初のドイツ語訳はHoffmannが1870年に行ったが,夭折したためにRauberが改訂を引き継いで改訂を行ったものである.Rauberの解剖学書25)の中の図は,Quainの解剖学書の図がもとになっている.Quain解剖学の1856年の第6版では,Rauberのものと同じ図が用いられているが,はるかに小さくて貧弱である.1891年に出されたQuain解剖学の第10版では,Schäferが全面的に改訂を行い,以前の版とは異なる図が用いられている.藤野厳九郎は,英語版のQuain解剖学の第10版を所持しており,あわら市の藤野記念館に遺品として残されている.斎藤ノートの図は,ドイツ語版のRauber25)のものによく似ており,英語版のQuain解剖学を模写したものではない.

5.柳澤ノートの解剖図

図7 柳澤ノートの骨学ノート42頁,左側では上に顔の前面,下左に上顎骨の外側面,下右に同内側面が描かれている.右側では図のネームおよび講義テキストが記されている.

 柳澤ノートの骨学の部分は,骨学講義と骨格図が同一のノートであること,講義内容の順序においても,斎藤ノートと同じである.しかしノートの筆記の文字が不揃いで乱雑であること,解剖図が簡略で仕上げに注意が払われていないことなど,明らかに講義を筆録し,板書の図を大急ぎで写し取ったものである(図7).教師がいくら丁寧に解剖図を板書しても,講義の時間内にそれを写し取ることが医学生にとって容易ではなかったことが,このノートを見ると実によく分かる.これと比較すると,斎藤ノートや小野ノートの解剖図は,講義の後で時間をかけて教科書から模写されたものであることが明らかである.

 また筆記の文字についても,小野ノートではきわめて整然と丁寧に書かれており,これも講義の後で清書をしたものであると考えられる.斎藤ノートの文字もかなり丁寧ではあり,解剖図が解剖学書から模写されたものであることを考えれば,これも清書であると判断される.

6.魯迅の解剖学ノート

図8 魯迅医学筆記,筋学ノートの第1頁.1年級の冒頭にあった藤野教授の講義で,ノートは清書されている.
図9 魯迅医学筆記の血管学ノート.筋学に続く講義で,筆録されており,藤野教授による朱筆の添削がある.

 魯迅の解剖学ノートには,清書されたノートと筆録のノートがある.清書されたノートは,字が丁寧に書かれて大きさが揃っており,また骨学と筋学のように,テキストの部分と図の部分が別のノートになっている.ただし解剖学総論だけは例外で,清書でありながらテキストと図に同じノートを用いている.
 筆録のノートでは,字が不揃いで乱雑であり,講義中に急いで書き取ったことが伺える.ただし講義の進行につれて字が次第に丁寧になっていき,講義の筆録に慣れていったことが分かる.テキストと図は同じノートを用いている(図8).
 魯迅のノートで清書されたと判断される部分は,敷波教授担当の解剖学総論,骨学講義,組織学の冒頭の25%,および藤野教授担当の筋学である.これ以外のノートはすべて筆録であると考えてよい(表6).添削はおもに赤インキで書かれているが,黒インキ,青インキ,紫インキによるものも散見する.添削が集中的になされているのは,藤野教授が担当する講義で,1年級の血管学と神経学,2年級の局所解剖学である(図9).他の筆録のノートにも訂正の跡がわずかに見られるが,藤野教授による独特の筆跡のものではない.泉彪之助氏15)が推測しているような藤野教授による添削ではなく,本人による後日の加筆であると考えられる.

表6

 魯迅のノートの配列は,敷波と藤野が講義をした順序をほぼ保存していると考えられる.実際,敷波の解剖学総論,骨学,靱帯学,内臓学,感覚器学,(ノートでは内臓学と感覚器学の順序が逆転)という順序,および藤野の筋学,血管学,神経学という順序は不自然なものではないし,両者による講義が並行して行われたとしても無理なものではない.
 魯迅ノートの清書された部分は,敷波の解剖学,藤野の解剖学,および敷波の組織学の講義の冒頭部分に集中している.魯迅は当初,解剖学と組織学の講義についてはノートを清書しようと考えていたが,途中でそれを断念して筆録に変えたものと考えられる.

7.総括

 魯迅の時代の学生たちの解剖ノートからは,当時の医学生がどのように学習したかが,見えてくる.医学生たちの一部は,柳澤のように講義を筆録してノートを残した.その一方で,斎藤や小野のように,講義が終わってからノートを清書し,解剖学書から図を模写した学生もいる.魯迅医学筆記では,解剖学と組織学の始めの頃の講義では清書を行ったが,途中から筆録のままのノートを残すようになった.藤野の講義で魯迅が筆録のノートを残しているのは,血管学,神経学,局所解剖学であり,これらのノートにだけ,藤野による添削の朱筆が加えられている.清書の時期の骨学や筋学の解剖図は,解剖学的な内容が不適切であるが,筆録のノートの中の解剖図はテキストとよく対応していて,内容は適切である.
 解剖学の教科書や図譜など伝存する印刷資料によって,歴史上の医学の教育内容はある程度推測することができる.しかし歴史上の医学教育の実態を直接に伝える資料は,あまりにも少ない.魯迅医学筆記およびその同時代の学生たちの解剖ノートは,その意味で医学史上におけるきわめて貴重な資料である.
 この研究の基礎となった,北京および仙台でのシンポジウムでの発表の機会,あわら市の藤野厳九郎記念館への調査は,東北大学のご厚意により実現したものである,今回の分析に用いた魯迅および同時代の学生たちの解剖学ノートは東北大学,仙台における魯迅の記録を調べる会のご厚意により提供いただいた.資料の解読および解釈にあたって大きな示唆を与えていただいた東北大学の大村泉教授,および魯迅研究プロジェクトの方々に深く感謝申し上げたい.

【文献】

  1. 阿部兼也(2000)魯迅の仙台時代―魯迅の日本留学の研究,改訂版,東北大学出版会
  2. Bock CE (1842-1843) Handbuch der Anatomie des Menschen, in 3 vols, Friedrich Volckmar, Leipzig
  3. Bock CE (1850) Hand-Atlas der Anatomie des Menschen, 3rd ed, Renger'schen, Leipzig
  4. Broesike G (1912) Lehrbuch der normalen Anatomie des menschlichen Körpers, 9th ed, Fischer's, Berlin
  5. Gegenbaur C (1892) Lehrbuch der Anatomie des Menschen, 5th ed, in 2 vols, Wilhelm Engelmann, Leipzig
  6. Gray H (1858) Anatomy descriptive and surgical, J. W. Parker and Son, London
  7. Heitzmann C (1890) Die descriptive und topographische Anatomie des Menschen, 6th ed, Wilhelm Braumüller, Wien
  8. Henke W (1888) Handatlas und Anleitung zum Studium der Anatomie des Menschen im Präpariersaale, in 2 vols, August Hirschwald, Berlin
  9. Henle J (1855-1871) Handbuch der systematischen Anatomie des Menschen, in 3 vols, Friedrich Vieweg und Sohn, Braunschweig
  10. Hollstein L (1873) Lehrbuch der Anatomie des Menschen, 5th ed, E. H. Schroder, Berlin
  11. Hyrtl J (1847) Handbuch der topographischen Anatomie, J. B. Wallishausser, Wien
  12. Hyrtl J (1863) Lehrbuch der Anatomie des Menschen, 8th ed, Wilhelm Braumüller, Wien
  13. 今田 束(1905)實用解剖學,第15版,全3巻,今田十五郎,東京
  14. 石川喜直(1903-1904)人體解剖學,全5巻,吐鳳堂,東京
  15. 泉彪之助(1994)藤野教授と魯迅の医学ノート.魯迅仙台留学90周年記念国際学術・文化シンポジウム報告論集,154-165
  16. 泉彪之助(1995)魯迅の大学ノート,福井県立大学看護短期大学部論集2:1-10
  17. Krause CFT (1843) Handbuch der menschlichen Anatomie, 2nd ed, Hahn'schen Hofbuchhandlung, Hannover
  18. Meyer GH (1873) Lehrbuch der Anatomie des Menschen, 3rd ed, Wilhelm Engelmann, Leipzig
  19. 日本解剖學會編(1950)解剖學圖書目録,日本解剖學會,東京
  20. Pansch A (1886) Grundriss der Anatomie des Menschen, 2nd ed, Robert Oppenheim, Berlin
  21. Poirier P, Charpy A (1892-1904) Traité d'anatomie humaine, in 5 vols, L. Battaille; Masson, Paris
  22. Quain J (1828) Elements of descriptive and practical anatomy: for the use of students, W. Simpkin and R. Marshall, London
  23. Quain J (1834) Elements of anatomy, John Taylor, London
  24. Quain J, Wilson WJE (1856) A series of anatomical plates; with references and physiological comments, illustrating the structure of the different parts of the human body, 4th ed, Samuel S. and William Wook, New York
  25. Rauber A (1892) Lehrbuch der Anatomie des Menschen, 4th ed, Eduard Besold, Leipzig
  26. Richter E (1896) Grundriss der normalen menschlichen Anatomie, August Hirschwald, Berlin
  27. 魯迅・東北大学留学百周年史編集委員会編(2004)魯迅と仙台 東北大学留学百周年,東北大学出版会
  28. 坂井建雄(2005)魯迅の学んだ解剖学―医学史の視点から.国際シンポジウム「魯迅の起点:仙台の記憶」.北京魯迅博物館,北京,2005.9.27-28.
  29. 坂井建雄(2006)解剖学ノートが語る医学生魯迅.国際シンポジウム「魯迅と藤野先生」.仙台国際センター白橿,仙台,2006.2.18.
  30. 坂井建雄(2006)魯迅学过的解剖学―从医学史的观点来看.魯迅研究月刊 293:33-46
  31. Sappey PhC (1876-1879) Traité d'anatomie descriptive avec figures intercalées dans le texte, 3rd ed, 4th ed, Adrien Delahaye, Paris
  32. Schäfer EA, Thane GD (1894-1899) Quain's elements of anatomy, 10th ed, in 3 vols in 9, Longmans, Green and Co., London
  33. 仙台における魯迅の記録を調べる会編(1978)仙台における魯迅の記録,平凡社
  34. Sharpey, W, Ellis GV (1856) Elements of anatomy by Johnes Quain, 6th ed, in 3 vols, Walton and Maberly, London
  35. Testut L (1899-1901) Traité d'anatomie humaine, 4th ed, in 4 vols, Octave Doin, Paris
  36. Toldt C (1907)Anatomische Atlas für Studierende und Ärzte, 5th ed, Urban & Schwarzenberg, Berlin
  37. 浦山きか(2005)小野豊三郎の解剖学ノート.日本医史学雑誌 51:216-217

The Anatomical Education in the Late Meiji Era
―Lu Xun, Doctor Fujino and Their Comtemporaries

Tatsuo Sakai
Department of Anatomy, School of Medicine, Juntendo University, 2-1-1 Hongo, Bunkyo-ku, Tokyo 113-8421, Japan

 Lu Xun studied medicine at Sendai Medical School for 1 and a half years and then changed his course to Literature. In his novel “Doctor Fujino”, Lu Xun told his memory on the anatomical notes in which Professor Fujino made numerous corrections. I analyzed the anatomical notes by Lu Xun and his classmates, and revealed the situation of lectures at that time. The teachers drew many anatomical illustrations on the black board with colored chalks. The lecture notes of students may be either clean copies rewritten after lectures or crude notes written during the lectures. When making clean copies, they copied anatomical illustrations in the anatomical textbooks at hand. The anatomical textbooks by Gegenbaur, Rauber and Ishikawa were utilized. Lu Xun made clean copies in the first two months after matriculation, and made crude notes after then. Corrections by Professor Fujino were found in the crude notes for his lectures.
 Kew words: Lu Xun, medical history, anatomical education, Meiji era

(このページの公開日:2021年6月10日)

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